「私は憎まない」

スタッフコラム

10月7日の朝、NHKニュースで映画『私は憎まない』について知った。この作品は、ガザ出身の医師イゼルディン・アブラエーシュ博士の実話に基づいている。彼は、「医療でイスラエルとパレスチナの分断に橋を架ける」といい、今も活動を続けているという。

イゼルディン・アブラエーシュ博士は、産婦人科でイスラエル人とパレスチナ人両方の赤ちゃんの誕生に携わるなかで、「病院で命が平等に扱われるように、病院の外でも人々は平等であるべきだ」と考えていた。しかし2009年、博士の自宅はイスラエル軍の砲撃を受け、愛する3人の娘と姪が命を落とした。彼はとても悲しんだが、その翌日、テレビカメラの前で「私は憎まない。共存を望む」と訴えた。

私はこの話にとても強い感銘を受けた。なぜ博士は、娘たちの命を奪ったイスラエル軍に対して憎しみをもたなかったのか。

多くの人が「目には目を、歯には歯を」という言葉を耳にしたことがあるだろう。古代バビロニアのハンムラビ法典に由来し、旧約聖書にも記されている言葉だ。これは同等の報復を意味し、被害者が受けた損害と同じ程度の罰を加えることを正当化している。現代社会においても、この復讐と報復の議論は絶えることがない。犯罪被害者やその家族が加害者に対して報復を求める心情には多くの人が理解を示すが、その正当性や効果については多くの議論が存在する。

あるとき、私は友人から「家族が殺されたら、相手の死を望む?」と聞かれた。家族が殺された場合、おそらく加害者の死を望むのは自然な感情だろう。しかし私は、「望む」とは答えなかった。家族が殺されたことと、相手の死を望むことの間に、つながりを感じなかったからだ。殺した相手が死んだとしても、殺された家族は生き返らない。それでも人は、加害者の死を望む。何故なのだろう?

たしかに復讐は、一時的な満足感をもたらすかもしれない。しかし問題の根本的な解決にはならず、むしろ新たな暴力の連鎖を生む。国際紛争においても、この構図は同じだ。イスラエルとパレスチナの対立は、報復の連鎖が紛争解決を困難にする典型的な例。報復が続く限り、平和への道は遠のくばかりである。

この状況を打開するには、どうすればよいだろうか。博士は「共存を望む」という。彼は個人の憎しみより、社会全体の平和と安定を優先しているようだ。博士のように考える人は決して多くない。社会全体の平和や安定より、自分のなかにある憎しみや悲しみに目がむいてしまうのは、人として仕方のないことのようにも思う。

NHKニュースに出演した博士は、最後にこう話した。

「泣き声をあげている赤ちゃんを、(国で)区別できる人がいるだろうか。憎しみは生まれもったものではなく、あとで醸成されるものなのだ」。

憎しみが後天的なものだとしたら、世界の在り方を変えることで復讐を繰り返す行為を止めることができるのだろうか。私はまだ、その答えが見つけられない。

井上 真花(いのうえみか)

井上 真花(いのうえみか)

有限会社マイカ代表取締役。PDA博物館の初代館長。長崎県に生まれ、大阪、東京、三重を転々とし、現在は東京都台東区に在住。1994年にHP100LXと出会ったのをきかっけに、フリーライターとして雑誌、書籍などで執筆するようになり、1997年に上京して技術評論社に入社。その後再び独立し、2001年に「マイカ」を設立。主な業務は、一般誌や専門誌、業界紙や新聞、Web媒体などBtoCコンテンツ、および広告やカタログ、導入事例などBtoBコンテンツの制作。プライベートでは、井上円了哲学塾の第一期修了生として「哲学カフェ@神保町」の世話人、2020年以降は「なごテツ」のオンラインカフェの世話人を務める。趣味は考えること。

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