デジタル技術は日常に深く浸透し、かつての感性や体験のあり方を大きく変えています。この記事では、ぼく自身の体験や感じたことをもとに、写真と音楽のデジタル化の現状と、その背後に潜むものについて考察してみます。
以前から写真撮影が好きで、コンパクトデジタルカメラやiPhoneを使って日常の一瞬を捉えて撮影していました。月食の日、スマホで月の写真を撮影した際、まるで望遠鏡を通して見たような鮮明な月の姿が写っていました。もちろんぼくの腕ではなく、望遠レンズと高度な画像処理技術のおかげです。そのときは、「こんなすごい写真が撮れるんだ」とびっくりしました。
しかし、そのあと月が欠けていく様子や地球の影にすっぽりと隠れてしまう様子を撮っても、月が欠けているかどうかわからない、ぼやっとした光しか撮影されません。その時、「こっちが本当だよな」と感じました。と同時に、撮影すること自体がつまらなくなってしまったんです。それ以来、あまり写真を撮らなくなりました。
最近のスマホは、撮影シーンを問わずきれいな写真を撮ることができます。暗闇でも昼間のように明るく撮れますし、空もきれいな青空になります。それはそれで美しいとは思うものの、以前感じていたような素直な感動が失われてしまったような気がしてなりません。
そういえば、音楽の世界もアナログからデジタルへと移行すると共に大きく変化しました。デジタル音源はノイズが少なく、クリアな音質が評価されています。最新の空間オーディオ技術を使えば、まるでライブ会場にいるかのような臨場感を楽しむことができます。しかし、こうしたデジタルの完璧な再現性と引き換えに、かつてアナログ音源で感じていたその場の空気感や微妙なノイズが失われてしまったような気がします。
最近、カセットテープレコーダーやレコードといったアナログ音源が再び人気を博しているそうです。これらの音源を聴くと、デジタル音源では味わえない「空気感」や「ノイズ」を伴った音楽体験が蘇ります。
デジタル技術がもたらす利便性を享受する代わりに、「手作り感」や温かみが失われつつある。そのことに気づき、取り戻そうとする動きが広がっているのかもしれません。オールドコンデジやフィルムカメラの再評価、そしてカセットテープやレコードの復権は、技術が進化する中で失われたものを取り戻す試みとして注目されているのではないでしょうか。
先日、ほぼリアルタイムで翻訳を行うガジェットがキックスターターで販売されていました。こういった商品が増えることで、言語の壁は大幅に低くなっていくでしょう。これにより、異なる文化圏の人々とのコミュニケーションが容易になるのは間違いありません。
その一方で、単なる言葉の翻訳だけでは、各言語に根付く文化や細かなニュアンスまで伝えきれないという課題が浮かび上ってくる可能性もあります。人と人との会話には、言葉以上の背景や感情が存在し、機械的な翻訳だけでは補いきれない部分があるのではないかと感じています。例えば、ピタハン族が用いる言葉には時制がありません。一方、フランス語の時制は8つあります。この2つの国の民族が翻訳機を使って会話しても、その言葉が表現している意味のほとんどは伝わらないでしょう。
デジタル技術は、写真や音楽、そしてコミュニケーションの形を革新し続けていますが、その一方で、微妙なニュアンスや微かな要素がこぼれ落ちているという事実もあります。先述の鮮明な月の写真は、技術の進歩を感じさせると同時に、「自分だけの瞬間」をどこか遠ざけてしまったようにも思えました。また、デジタル音源のクリアな音質と引き換えに、カセットテープやレコードのようなアナログ特有の温もりが再評価される現状を鑑みたとき、微妙な違いを敏感に感じ取る人間の感覚の奥深さに驚きます。
コメント