人妻日記(1)
私、岩田美加。10才の美少年(かなりキテる)と8才の美少女(ヤリ手)の母親をやりつつも、月刊誌に連載を書かせてもらったりしている。が、本職はハードロッカーのつもり。8月にバンドを抜けて以来、就職口が見つからない。一緒に活動していた夫は、さっさと大阪の“一発かましバンド”に連れていかれてしまった。プロライターを目指しながらも、毎週嬉々としてバンド練習に出かける夫を見ると、煩悩がうずいてしかたがない。ああ、我にバンドを与えたまえ。
1995年11月20日(月)曇り
■6:20 pm
瑞穂がやけどをした。寒いから、炊飯機の蒸気穴に手をかざし、あっためようとしたんだそうだ
「なんたっておんなだし」
夫はいう。じゃあなにかい、これが長男だったらええっちゅうんかい、とつっこみたい。
病院にいくと、流行性感冒患者でごったがえしていた。順番札をとると、74番とあった。診察室の前にかかっている札には、「ただいまの診察・50番」と書かれていた。あと2時間は待たされることだろう。
それにしても、病院というのはおかしな所だ。ここは、病気の人が来る場所のはずなのに、元気な人でもくたくたになるほど待たされるシステムになっている。高熱を出し、本来なら立つこともできないくらい体力のなくなった患者が、家族に連れられやっとここにたどりつくと、それからさらに2時間待てと言い渡される。病院廊下の固いソファーに座り、発熱のため関節が痛むのをこらえているうちに、熱はさらに上昇していく。医者の前に座る頃には、すっかり重病患者の仲間入りだ。すると、医者は嬉々として言い渡すのだ。
「ああ、これはひどい。肺炎をおこしてますね。すぐに入院しなければ。どうしてこうなるまでほっといたんですか……」
瑞穂のやけどは、やっぱり少々ひどかったようで、毎日消毒と包帯交換に通うことになった。私の予想だと、そうやって通院しているうちに、流行性感冒のえじきにもなるはずだ。通院は通院を呼ぶ。病弱と言われるひとって、案外こういう経路をたどってなかなか病から足を洗えずにいるだけのような気がする。
1995年11月23日(木)雨
■9:41 pm
スマップの木村拓哉と結婚すると決めている瑞穂が、毎週楽しみにしているTV番組は、「ミュージックステーション」だ。彼女はよく、この番組を間違えて「ニュースステーション」という。「あたしね、ニュースステーションは絶対見逃さないって決めてるの」なんていう8才がいたら、むちゃくちゃかっこいいと思うけど。
瑞穂があまり騒ぐので、つられてスマップのファンになってしまった、海広。彼の目標は、ジャニーズに入って「ゆうめいじんになること」。3才の頃から、ひたすら「お金持ちになりたい」と祈り続けてきた彼だが、去年急に「有名になりたい」と路線変更宣言をした。有名になるにはどうしたらいいの、あさはらしょーこーみたいになればいいの。時々たわけたことを抜かすので、彼はよく母親にぶっとばされる。どんな手を使っても有名になろうという、その根性は見上げたもんだとは思うのだが、さすがにそっち方面は勘弁してほしい。あさはらしょーこーはまずいらしいと悟った彼は、最近ジャニーズに注目しはじめた。光ゲンジ、TOKIO、スマップ。あんなにたくさんいるんだから、ぼくだってきっとどこかに入れてもらえるよ、と彼は言う。TVのスマップを見ながら、歌って踊り狂う彼。その様子をながめ、私は彼の資質について、早々に見限りをつけてしまった。彼はジャニーズにはむかないと思う。もっとほかの道を探したほうがいい。
将棋士なんて、どうだろう。今時の将棋士はいいぞ。CMにだって出演できる。海広は、なぜか将棋が強い。あまり考えずにさしているようなのに、きっちり勝ってしまう。しかも、彼は羽生さんに顔が似ている。さらに、ちゃんと公文にも通っているのだ。ばっちりではないか。
1995年11月24日(金)晴れ
■4:14 pm
年末進行で、今月だけ連載を書いている雑誌の締め切りが繰り上がった。小さなコラムの方は、5日になったと知っていた。が、肝心の連載の締め切りが今月いっぱいだとは知らなかったぞ。編集部の方からメールで告知され、青くなった。まだネタさえ浮かんでいない。しばし母親業を捨て、ひとりの部屋に閉じこもることにした。しょっちゅうこういう目にあっている子供たちは、「行ってらっしゃ〜い」と笑顔で母を見送ってくれる。
「洗濯たたんでおこうか」
娘の台詞に、ああ子供産んどいてよかったと実感する。なんなら、スペアにもういっここさえとくか。
ひとりで部屋に閉じこもる時、よきパートナーとなってくれるのが、私の愛機、100LXだ。パソコンでないと、もう原稿は書けない。でも、デスクトップは私をデスクにしばりつけるのできらい。だからといって、ノート型は持って歩くのが辛すぎる。女性ライターにとって、このサイズはありがたい。ただ、暗い場所ではほとんど使い物にならないという欠点はあるが。
ゆったりとベッドに横になり、LXを広げて書き留めておいた雑記帳ファイルを開く。そこには、台所で思いついたネタ、トイレでがんばっている時にふいに浮かんだアイデア、買い物に行きがてらぽっと思いついたストーリーなどが、乱雑にメモされている。この整理されていないメモの山が、私の仕事をいつもしっかりサポートしてくれているのだ。
私は、どうも混沌の山からでないと、新しいものを産み出せないタイプの人種らしい。知り合いに聞くと、彼は資料はいつもスクラップにきちんと整理してあり、欲しい情報は一発で呼び出せるようになっていないとどうも気持ちが悪い、と言う。そうできれば、きっととても気分がいいだろうと、私も思う。だけど、もし私がそれを始めたら、きっとその作業に没頭するあまり、原稿などそっちのけになってしまう恐れがある。あげく本末転倒、手段が目的に早変り、整理された情報スクラップの前で、私はいったい何がしたかったのだろうと茫然とすることになろう。だから、あえて整理はしない。ナマケモノだからだ、とは決して言わせないのだ。ほんとはそうなんだけど。
今回も、山のようなメモの中から首尾よくひとつのネタを発見した私は、意気洋々と部屋を出た。
リビングを見ると、洗濯をたたんでおいてくれるはずの娘は、息子とともに「やっつけごっこ」に没頭していた。彼らの足元には、めちゃめちゃに踏み荒らされた洗濯物が……
1995年11月25日(土)晴れ
■10:59 pm
焼肉をたらふく食べて、気分良く食後の惰眠をむさぼっていたら、電話のベルが鳴った。が、かまわずそのまま寝続けた。娘がどうにかしてくれるだろう。案の定、彼女の声が聞こえて来た。
「はい、岩田です。……はい。います。ちょっとお待ち下さい」
やれやれ、どうやら起きなくてはならないらしい。いつも寝起きだと見破られるぼよんとした声のまま、私は受話器に話しかけた。
「はい代わりました」
「あの……コバヤシですけど」
電話から聞こえて来たのは、忘れるはずもないあいつの声だった。
「コバちゃん!」
雑誌を呼んでいる夫の眉が、右側だけ持ち上がった。
「どうしたのよ〜。あんた何してたのよ〜。ギターはどうなったのよ〜」
興奮して、声が上ずってしまう。我ながら情けない。
「すみませんです。ご無沙汰してしまって。あの、バンドって今どうなってます?」
「どうなってるもないわよ〜。あんたこそどうしてたのよ。ねえねえ、まだ弾けるの」
「ばっちりです。あれからずっと、あの曲練習してたんですから。ほら、あのおれの苦手だったやつ」
……とんでもないやろうだ。
「ずっとDADDYのソロ練習してて、今や完璧です。それから、思い切ってマーシャル80Wアンプも買いました」
まさにクレイジーだ。
「あの、とにかく夫に代わるわ」
頭がくらくらしてきて、とりあえず逃げた。
夫はまるで数年来の恋人に出会ったような顔つきで、いそいそと電話を代わった。当然だろう。彼にしたって、ずっとこの男のギターに恋こがれていたのだ。いよいよ連絡がついたとなれば、有頂天になるのもしかたがない。
しかし、マッドだ。こんな男、見たことない。一年バンドやってなくて、そのあいだずっと音沙汰なしだった。きっと結婚したばかりなんで、新妻に入れ上げていたとばかり思っていた。ところがどっこい、あいつは一年間、ずっと一曲を練習し続けていたというのだ。さらに、復活できる見込みもないバンドのために、あのどでかく高価で死ぬほど場所取りの、あのあのあのマーシャルアンプを買っていたという。いやしかし、確かにそういうこともあろう、あの男ならば。現代に生きる匠のワザ。あいつの根気のよさといったら、ない。
「そんでさ、来年の二月にちょっと人前でやりたくて」
夫は、いつになく前向きに話を進めている。こいつがこんなに建設的な話をする男だとは、結婚11年目にして初めて知ったぞ。
とりあえず、年末に会って話そうということになり、彼は受話器を置いた。
「ねえねえ、突然どうしてコバちゃん連絡くれたんだろうね。彼はてっきりもうギターを握らない覚悟だと思っていたのに」
興奮さめやらないまま、私は夫に言った。彼はゆっくり振りむくと、「ふふ」と無気味にほくそえんだ。
「ちょっとね。裏で手を回しておいたのさ。そろそろ連絡がある頃だと思った」
……こいつ、策士だったのか。意外だ。結婚11年目にして、まだまだ未知の部分は多いと悟った私だった。彼は上機嫌で、手元のキャスターを取り火をつけた。
「もちろん、美加もメンバーだからね。ちゃんと練習しておけよ」
どうやら彼の計画は、始動しはじめたらしい。まあ、いいだろう。私は、またバンドがやれればそれでいいのだ。どんな思惑にだって、乗ってやろうじゃないの。
◆執筆者後記
通信始めて1年半。これほどのめりこんでしまうとはね。もしかしたら、まだ出会っていないあなたに出会うため、私は毎日アクセスしているのかも、なんて。こうなったら一生夢見続けてやるぅ。