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2000年06月 アーカイブ

2000年06月25日

人妻日記(1)

 私、岩田美加。10才の美少年(かなりキテる)と8才の美少女(ヤリ手)の母親をやりつつも、月刊誌に連載を書かせてもらったりしている。が、本職はハードロッカーのつもり。8月にバンドを抜けて以来、就職口が見つからない。一緒に活動していた夫は、さっさと大阪の“一発かましバンド”に連れていかれてしまった。プロライターを目指しながらも、毎週嬉々としてバンド練習に出かける夫を見ると、煩悩がうずいてしかたがない。ああ、我にバンドを与えたまえ。

1995年11月20日(月)曇り

■6:20 pm
 瑞穂がやけどをした。寒いから、炊飯機の蒸気穴に手をかざし、あっためようとしたんだそうだ。走り回って「いたいいたい」と泣き叫ぶ彼女を横抱きにし、洗面所に飛び込んだ。しばらく流水で冷やし、我が家では「よく効く」とされている軟膏を塗っておいたが、翌日大きな水ぶくれになっていた。周囲の皮膚も、どす黒く変化している。このまま跡が残ったら、彼女に死ぬまで怨まれるに違いない。やっと病院へ連れていく決意をした。
「なんたっておんなだし」
 夫はいう。じゃあなにかい、これが長男だったらええっちゅうんかい、とつっこみたい。

 病院にいくと、流行性感冒患者でごったがえしていた。順番札をとると、74番とあった。診察室の前にかかっている札には、「ただいまの診察・50番」と書かれていた。あと2時間は待たされることだろう。

 それにしても、病院というのはおかしな所だ。ここは、病気の人が来る場所のはずなのに、元気な人でもくたくたになるほど待たされるシステムになっている。高熱を出し、本来なら立つこともできないくらい体力のなくなった患者が、家族に連れられやっとここにたどりつくと、それからさらに2時間待てと言い渡される。病院廊下の固いソファーに座り、発熱のため関節が痛むのをこらえているうちに、熱はさらに上昇していく。医者の前に座る頃には、すっかり重病患者の仲間入りだ。すると、医者は嬉々として言い渡すのだ。
「ああ、これはひどい。肺炎をおこしてますね。すぐに入院しなければ。どうしてこうなるまでほっといたんですか……」

 瑞穂のやけどは、やっぱり少々ひどかったようで、毎日消毒と包帯交換に通うことになった。私の予想だと、そうやって通院しているうちに、流行性感冒のえじきにもなるはずだ。通院は通院を呼ぶ。病弱と言われるひとって、案外こういう経路をたどってなかなか病から足を洗えずにいるだけのような気がする。


1995年11月23日(木)雨

■9:41 pm
 スマップの木村拓哉と結婚すると決めている瑞穂が、毎週楽しみにしているTV番組は、「ミュージックステーション」だ。彼女はよく、この番組を間違えて「ニュースステーション」という。「あたしね、ニュースステーションは絶対見逃さないって決めてるの」なんていう8才がいたら、むちゃくちゃかっこいいと思うけど。

 瑞穂があまり騒ぐので、つられてスマップのファンになってしまった、海広。彼の目標は、ジャニーズに入って「ゆうめいじんになること」。3才の頃から、ひたすら「お金持ちになりたい」と祈り続けてきた彼だが、去年急に「有名になりたい」と路線変更宣言をした。有名になるにはどうしたらいいの、あさはらしょーこーみたいになればいいの。時々たわけたことを抜かすので、彼はよく母親にぶっとばされる。どんな手を使っても有名になろうという、その根性は見上げたもんだとは思うのだが、さすがにそっち方面は勘弁してほしい。あさはらしょーこーはまずいらしいと悟った彼は、最近ジャニーズに注目しはじめた。光ゲンジ、TOKIO、スマップ。あんなにたくさんいるんだから、ぼくだってきっとどこかに入れてもらえるよ、と彼は言う。TVのスマップを見ながら、歌って踊り狂う彼。その様子をながめ、私は彼の資質について、早々に見限りをつけてしまった。彼はジャニーズにはむかないと思う。もっとほかの道を探したほうがいい。
 将棋士なんて、どうだろう。今時の将棋士はいいぞ。CMにだって出演できる。海広は、なぜか将棋が強い。あまり考えずにさしているようなのに、きっちり勝ってしまう。しかも、彼は羽生さんに顔が似ている。さらに、ちゃんと公文にも通っているのだ。ばっちりではないか。


1995年11月24日(金)晴れ

■4:14 pm
 年末進行で、今月だけ連載を書いている雑誌の締め切りが繰り上がった。小さなコラムの方は、5日になったと知っていた。が、肝心の連載の締め切りが今月いっぱいだとは知らなかったぞ。編集部の方からメールで告知され、青くなった。まだネタさえ浮かんでいない。しばし母親業を捨て、ひとりの部屋に閉じこもることにした。しょっちゅうこういう目にあっている子供たちは、「行ってらっしゃ〜い」と笑顔で母を見送ってくれる。
「洗濯たたんでおこうか」
 娘の台詞に、ああ子供産んどいてよかったと実感する。なんなら、スペアにもういっここさえとくか。

 ひとりで部屋に閉じこもる時、よきパートナーとなってくれるのが、私の愛機、100LXだ。パソコンでないと、もう原稿は書けない。でも、デスクトップは私をデスクにしばりつけるのできらい。だからといって、ノート型は持って歩くのが辛すぎる。女性ライターにとって、このサイズはありがたい。ただ、暗い場所ではほとんど使い物にならないという欠点はあるが。

 ゆったりとベッドに横になり、LXを広げて書き留めておいた雑記帳ファイルを開く。そこには、台所で思いついたネタ、トイレでがんばっている時にふいに浮かんだアイデア、買い物に行きがてらぽっと思いついたストーリーなどが、乱雑にメモされている。この整理されていないメモの山が、私の仕事をいつもしっかりサポートしてくれているのだ。

 私は、どうも混沌の山からでないと、新しいものを産み出せないタイプの人種らしい。知り合いに聞くと、彼は資料はいつもスクラップにきちんと整理してあり、欲しい情報は一発で呼び出せるようになっていないとどうも気持ちが悪い、と言う。そうできれば、きっととても気分がいいだろうと、私も思う。だけど、もし私がそれを始めたら、きっとその作業に没頭するあまり、原稿などそっちのけになってしまう恐れがある。あげく本末転倒、手段が目的に早変り、整理された情報スクラップの前で、私はいったい何がしたかったのだろうと茫然とすることになろう。だから、あえて整理はしない。ナマケモノだからだ、とは決して言わせないのだ。ほんとはそうなんだけど。
 今回も、山のようなメモの中から首尾よくひとつのネタを発見した私は、意気洋々と部屋を出た。

 リビングを見ると、洗濯をたたんでおいてくれるはずの娘は、息子とともに「やっつけごっこ」に没頭していた。彼らの足元には、めちゃめちゃに踏み荒らされた洗濯物が……


1995年11月25日(土)晴れ

■10:59 pm
 焼肉をたらふく食べて、気分良く食後の惰眠をむさぼっていたら、電話のベルが鳴った。が、かまわずそのまま寝続けた。娘がどうにかしてくれるだろう。案の定、彼女の声が聞こえて来た。
「はい、岩田です。……はい。います。ちょっとお待ち下さい」
 やれやれ、どうやら起きなくてはならないらしい。いつも寝起きだと見破られるぼよんとした声のまま、私は受話器に話しかけた。
「はい代わりました」
「あの……コバヤシですけど」
 電話から聞こえて来たのは、忘れるはずもないあいつの声だった。
「コバちゃん!」
 雑誌を呼んでいる夫の眉が、右側だけ持ち上がった。
「どうしたのよ〜。あんた何してたのよ〜。ギターはどうなったのよ〜」
 興奮して、声が上ずってしまう。我ながら情けない。
「すみませんです。ご無沙汰してしまって。あの、バンドって今どうなってます?」
「どうなってるもないわよ〜。あんたこそどうしてたのよ。ねえねえ、まだ弾けるの」
「ばっちりです。あれからずっと、あの曲練習してたんですから。ほら、あのおれの苦手だったやつ」
 ……とんでもないやろうだ。
「ずっとDADDYのソロ練習してて、今や完璧です。それから、思い切ってマーシャル80Wアンプも買いました」
 まさにクレイジーだ。
「あの、とにかく夫に代わるわ」
 頭がくらくらしてきて、とりあえず逃げた。

 夫はまるで数年来の恋人に出会ったような顔つきで、いそいそと電話を代わった。当然だろう。彼にしたって、ずっとこの男のギターに恋こがれていたのだ。いよいよ連絡がついたとなれば、有頂天になるのもしかたがない。
 しかし、マッドだ。こんな男、見たことない。一年バンドやってなくて、そのあいだずっと音沙汰なしだった。きっと結婚したばかりなんで、新妻に入れ上げていたとばかり思っていた。ところがどっこい、あいつは一年間、ずっと一曲を練習し続けていたというのだ。さらに、復活できる見込みもないバンドのために、あのどでかく高価で死ぬほど場所取りの、あのあのあのマーシャルアンプを買っていたという。いやしかし、確かにそういうこともあろう、あの男ならば。現代に生きる匠のワザ。あいつの根気のよさといったら、ない。
「そんでさ、来年の二月にちょっと人前でやりたくて」
 夫は、いつになく前向きに話を進めている。こいつがこんなに建設的な話をする男だとは、結婚11年目にして初めて知ったぞ。
 とりあえず、年末に会って話そうということになり、彼は受話器を置いた。

「ねえねえ、突然どうしてコバちゃん連絡くれたんだろうね。彼はてっきりもうギターを握らない覚悟だと思っていたのに」
 興奮さめやらないまま、私は夫に言った。彼はゆっくり振りむくと、「ふふ」と無気味にほくそえんだ。
「ちょっとね。裏で手を回しておいたのさ。そろそろ連絡がある頃だと思った」
 ……こいつ、策士だったのか。意外だ。結婚11年目にして、まだまだ未知の部分は多いと悟った私だった。彼は上機嫌で、手元のキャスターを取り火をつけた。
「もちろん、美加もメンバーだからね。ちゃんと練習しておけよ」
 どうやら彼の計画は、始動しはじめたらしい。まあ、いいだろう。私は、またバンドがやれればそれでいいのだ。どんな思惑にだって、乗ってやろうじゃないの。


◆執筆者後記
 通信始めて1年半。これほどのめりこんでしまうとはね。もしかしたら、まだ出会っていないあなたに出会うため、私は毎日アクセスしているのかも、なんて。こうなったら一生夢見続けてやるぅ。

人妻日記(2)

1995年12月31日(日)雪

 初めて外泊のおおみそか。奈良ホテルは身分違いもはなはだしい。父母の年代がもっともふさわしい。木造のカフェテラスでポットのコーヒーをいただきながら、妙な居心地の悪さを感じていた。
 思わず外に逃げ出すと、おおみそかの人通りがあわただしく好ましい。狭い店で名物びっくりうどんをすする。冷えた身体が暖まり、おなかもいっぱい。
 奈良公園には鹿の姿が見えない。もう夜だからか。大晦日だからか。鹿のいないこの場所は、ただの原っぱであると知った。

1996年1月1日(月)曇り

 正月。テレビはおとぼけて騒いでいる。せっかく奈良に来たというのに、テレビを見ていてはいけない。
 昨日の夜、春日大社前の通りを歩いていたら、ふいに背中から除夜の鐘の音が襲ってきた。この時はさすがに鳥肌が立った。毎年テレビの「ゆく年くる年」でぼんやり聞いていた、アレだ。生音はやはり迫力というか、重みというか……んー、なんだろう。やたらとありがたい気持ちにさせる。さらにビジュアルが迫力を添えた。下からライトアップされた三重の塔は美しすぎて、娘は「こわい」と私にすりよってきた。
 それでは、正月の奈良はどうか。過大な期待を抱きつつ、ホテルを出た。春日大社は目の前だ。まだ人通りの少ない道をそぞろ歩いていると、川辺をはぐれ鹿が3頭さまよっているのを見つけた。角が立派なので恐ろしい。
「あめごち」
 娘がつぶやいた。
「ん、なに」
「あめごち、食べる。絶対食べる」
 聞いたこともない食べ物だ。娘がぐっと指を伸ばし、道沿いに並んだ出店のひとつを差した。
 そこには、右から「いちごあめ」と書いてあった。
 しかし、間違えて左から読んだって、絶対“あめごち”にはならないぞ。
 “あめごち”は帰りに買い食いすることにし、とりあえず参拝を済ませようと先を急ぐ。並んだ出店の数は、果てしない。いちいちひっかかってたら、参拝までに力尽きそうなほどだ。
 そうでなくても、息子は鹿にひっかかるのだ。
 出店よりさらにたくさんの鹿が、道の両側にきちんと並んでいる。参拝客が珍しがって、鹿せんべいを買ってごちそうしてくれる。やつらはおとなしく参拝客を見つめているだけ。決して、鹿せんべい屋の商品に手を出したりはしない。やつらは知っているのだ。おとなしく、かわいく。それが彼らのセールスポイントなのだと。生き残るための手段なのだと。
 そして、息子はその「えせかわい子」にいちいちハマる世間知らずだ。
 鹿せんべいを持たない息子になど、何の興味も示さない鹿たち。それでも、必死で鹿の気をひこうとする息子。哀れである。

 参拝帰りに、ちょっと足を伸ばして東大寺へ。奈良の大仏を子供たちに見せておきたかった。というより、その「でかさ」で驚かしたかっただけなのだが。「でかさ」というのは、「すごい」と思うまでの経路が最もシンプルでわかりやすくて子供向きだ。そう私は信じている。
 東大寺は、春日大社より人が多い。そして、ここにも鹿だ。息子は相変わらず鹿に夢中。ほっといて、先に進む。
 しっとりとした暗闇に、奈良の大仏は座っていた。来る道すがら、小さなうそをついた息子は、この暗闇が若干恐ろしい。
「大仏はどんな顔をしている?」
 試しに聞いてみると、彼は小さな声で
「怒っているみたい」
 と言った。このくらいの子供は、まだわかりやすくていい。大好きだ。
 大仏のそばにある一本の柱には、通りぬけると幸せになれるという穴があいている。私はもうとっくに不可能となってしまったが、二人の子供はすんなりと通り抜けることができた。なんとはなしに、縁起がいい。
 大仏殿を出ると、今度は娘、焼き芋の屋台を見つけてしまった。これは、母親も嬉しい。率先して買う。割ると、中の黄色の実がほこほこっとおいしい。もたもた食べていた娘は、もちろん鹿に追い回されるハメに陥った。泣き叫ぶ娘。増える鹿の数。えせかわい子の化けの皮がはがれた瞬間だった。息子は、ただぼうぜんとあさましい鹿の姿を見つめるのみ。が、突然我に返った彼は、突然裏切られた怒りに燃えた。鹿を追いかけていき、殴りだしたのだ。掃除のおばちゃんは、「なぐってはアカン」と息子をたしなめた。息子は反抗的な目でおばちゃんを見返す。と、その隙に鹿はしっぽを巻いて退散した。娘の焼き芋は、どうやら無事だったらしい。
 で、問題の“あめごち”。買いましたって、しょうがないから。なめてもなめてもなくならないのは、元祖りんごあめと同じ。ホテルの入り口が目の前になると、悪い母親はまた脅かしたくなる。
「ホテルのおにいさんがね、“あめごち食べている人は、汚れますからホテルに入らないでください”って言うよ」
 ご機嫌でごちあめをなめていた娘、一瞬表情を固くした。知らん顔して、ホテルに入る。娘がドアを入ったところで、さっと彼女の顔を見た。すると、頬が異様にふくらんでいた。手に“あめごち”はなかった。すました顔でフロント前を通りぬける娘。エレベーターの乗り、ドアをしめたら「ぷっ」と手の上に“あめごち”を吐き出した。
「あー苦しかった。でもバレなくてよかったね」
 かくも信じやすい子供を、元旦からこうも脅かしまくっていてはイケナイ。


1996年1月3日(水)晴れ

 私の実家から、夫の実家へ向かう。自宅を出て今日で4日目。ふー。
 
 親戚と会って、ごちそうをいただいて。子供はなんといってもお年玉。まっとうなお正月を堪能している。今日で計3Kg太った私。もうヤケである。
 たくさんおもちゃをもらい、遊び狂う子供を見つつ思う。どうしてクリスマスとお正月は1週間しか離れていないのだろう。楽しみは、もっとまんべんなく存在するべきではないか。先週もらったプレゼントの余韻が残っているうちに、新しいプレゼントを与えるというのは、私はどうも気に入らない。

 ぜいたくが性にあわない人間という、私はそういうヤツらしい。うちの父もそうだった。もらいものやごちそうが、時折とても辛くなる。今回のように、外泊してごちそう食べてモノもらう。こんなのは、三重苦といってもいい。早くうちに帰って、梅干し茶漬けが食べたいよう〜と、私の胸ははりさけんばかりだった。不幸な女である。
「来年も奈良ホテルに泊まりたい」
 自宅に帰る道すがら、夫は私の肩を抱いて言った。
 生まれつきお坊っちゃんであらせられる我が夫、私と正反対に贅沢を楽しむ才能をもっている。うらやましい男だ。


◆執筆者後記
 待望の「古畑任三郎」が、やっと再スタートした。またあのねちっこーい演技が見られる。すっげえ嬉しい。マサカズがCMでニコスカード使っていても、「あら、古畑さんショッピング?」と思ってしまう程のめりこんでいたのだー。最近人気急上昇中の「今泉くん」のかわいさも磨きがかかったようだし。ああ、今年はいい年になるぞ。

人妻日記(3)

96/01/31(Wed)

 ついに、この日がやってきた。
 私は、つとめて平静を装い、何気なさそうに聞き返した。
 本当は、心臓がバクバクいっていた。
「な、なに。よく聞こえなかったから、もう一度言ってみて」
「だからぁ。今日ね、精子と卵子のお話を聞いてきたよって言ったの」
「ふ、ふーん」
 平常心、平常心。誰でも通る道なのだ。
「で、どんな話だったの」
「あのねー。すごいんだよー!」
 海広は、ランドセルから何かを取り出した。小さな紙きれのように見えた。
「これね、卵子だよ」
 その紙を、私に差し出す。ら、卵子……。
 卵子なんて、私だって見たことないぞ〜。どうやって入手したんだろうか。
 産婦人科に斡旋して、患者の卵子を採取しておいてもらって、それを冷凍保存しておくんだろうか。堕胎したあとの胎盤を、なにかの薬の材料に使うってのは聞いたことあるけど……それにしてもえぐい。学習のためだとはいえ、そこまでする必要はあるんだろうか。そのあたり、ちょっと今度の懇談会でちゃんと聞いておいたほうがいいな。
 なんてことを考えつつ、その紙をひらいた。
 が、そこには銀色に光るジンタンのような小さい玉が、セロハンテープで貼りつけてあるだけだった。
「なに、これ」
 呆ける私に、息子は元気よく答えた。
「それ、卵子だよ。卵子って知ってる? 人間の始まりなんだって。ぼくはそんなに小さかったんだね」
 これは卵子じゃねーぞ。これは、まさしくじいさまたちの愛用アイテム、ジンタンじゃありませんか。うそはいけない、うそは。
「あ、これ卵子じゃないよ。これ、ジンタンでしょ」
「んー。ジンタンってなに。これは、卵子だよ」
 ……困った。ジンタンを知らないやつに、ジンタンの説明をしろったって、そうできるものではない。
「とにかく、これは卵子じゃありません。多分、先生は卵子の大きさを教えたかったんでしょ。確かに、卵子ってのはとっても小さくて、んー、よく知らないけど、きっとこのくらいなんじゃないの」
「えー違うの。なーんだ。じゃ、これ人間にはならないの」
「ならない、ならない」
 なったら恐いぞ。恐怖のジンタン魔人。すんげーくさいの。
「そか。ねえ、じゃあ卵子って何色? 」
 んげ。何色? ……見たことないしなー。わかんないよな、色なんて。
「見たことないから、知らない」
「知らないの?」
 ちょっとさげずんだ顔。くそー。姿はしらないけど、毎月ちゃんと産んでるんだぞ、卵子。そんで、いつも大変な思いをしてるんだ、私は(泣)。これがやってくると、おなかは壊すわ、腰はたたなくなるわ、食欲はなくなるわ、ほーんとすごいんだから。
「んじゃ、精子は見たことある?」
 うわ。絶句。
 告白します。精子は、よく見ます。いえ、正しくは、精液ですね。あれには、よくお世話になってまして……なんてこと、息子に言えるかいっ!
「……ないわね」
 笑顔。だって、私の目は顕微鏡じゃないもん。精子が見えるわけないじゃん、と心でいい訳をする。
「ん。目に見えないくらい、小さいんだってね。卵子より、ずっとずっと小さいんだ。んで、たっくさんいるんだよ。3億だっけ」
 ほーほーほー。3億もいるのか。すごいな。でも、それって年齢差とかはないのかな。若い子は、たくさん出すとか。年寄りは、あんまり出さないとか。
 なんてことは、質問しない。
「3億の精子の中には、みひろ君と、みきろ君と、みほろ君と、みげろ君と、それからそれから、とにかくたっくさんいて」
 両手を広げる息子。
「で、その中のみひろ君が優勝したってことなんだ」
 突然、胸を張る。
「すごいだろー。ぼくは、3億の選手の中で一番速く泳げた精子なんだぞ」
 なんだか、自慢らしい。どうも、これが彼の一番言いたかったことのようだ。ほっとする私。
「はいはい。すごいね。そのわりに、運動会ではなんですが」
 一言多い母親だが、息子も負けちゃいない。なんたって、都合の悪いことは聞こえない耳をもっている。
「んでね、ぼく初めて知ったよ。女にも金玉があるんだね」
 おおおおおおおーーーーーーー!? なになになにっ?
「ないぞ」
 ないもん。だって、ないんだもん。どこにあるっていうのよ。
「あるんだってば。先生、言ってたもん」
 せんせ〜(泣)。頼むよ。それ、先生の勘違いじゃない?
 あ、あれかもしれない。ほら、今よくあるじゃん。ニューハーフってやつ。
 センセ、ニューハーフとつきあってんじゃないの? んで、女にもタマがあるなんて思い込んじゃって。……いや、まてよ。オナベってやつかも。女性が男性になるやつね。医学が進歩して、女にタマをつけることができるようになったとか。で、センセの女ともだちと、なんかの時に一緒にお風呂に入って、タマがありことを発見したとか。
 ブツブツ言ってると、息子がまたランドセルからなにかを引っ張り出す。
「ほら、ここに書いてあるじゃん。”女にもタマがある”」
 そのパンキーなタイトルは、ひとりの女性の裸体の上に書かれていた。裸体といっても、写真ではない。ごくシンプルな、線でシェイプされただけのイラストだ(当たり前だ)。
 イラストの女性は、「30代後半、経産婦、夫は帰りが遅いので、セックスは月1程度」と見た。下垂気味のバストとヒップが、全てを物語っている。
 んなことは、どうでもいい。
 それより、タマだ。タマはどこだ。
「ほら、ここ」
 女性の腰のあたりに、なにやら黒々と円が塗りつぶされてある。矢印があり、その先には「女性のタマ」と書かれてあった。これ、もしかして卵巣じゃない?
「ほら、あったでしょ。おかあさんにも、タマあるの? 」
 ……なるほど。男の精子を作る場所が睾丸、つまりタマだ。だから、女の卵子を作る場所は卵巣で、役割としては睾丸に匹敵するから、これもタマと呼んでしまおうという発想か。最近は、そんな風に教えているのか。
「タマだとは知らなかったけど、これはおかあさんにもあるよ」
「でしょ。ほんで、おかあさんのタマから卵子が出て、おとうさんのタマから精子が出て、精子が卵子の中に入って、ぼくになったんでしょ」
 あってる、あってる。
「そこまでは、わかったんだけど……」
 どき。
「おとうさんの精子は、どうやっておかあさんの卵子のそばに行けるんだろ」
 …… …… ……。
「ねーねーねー。どうやったら精子を卵子んとこに送れるの?」
 …… …… ……。
「ただいまー!」
 妹が、帰ってきた!
「おかえり、瑞穂〜!」
 大歓迎してしまう、母。瑞穂はすっかり面食らっている。
「おなかすいてない? おやつにしよっか」
 いそいそと、台所に消える。と、海広の声。
「瑞穂。おまえもな、3億の精子の中から勝ちぬいた、最強の戦士だったんだぞ」
 また始めからやりなおすようだ。ま、ごまかせてよかった。
「ふーん。精子ちゃん、たくさん死んじゃうのね。かわいそうね。でも、精子ちゃんが来てくれて、卵子ちゃんはきっとすごく喜んだね」
 瑞穂の反応は、この程度だ。まあ、おいおいわかっていくことでしょう。これでいい。 なんでもかんでも、ちゃんと教えようという親がいる。教えておかなくては、なにか悪いことが起こるんじゃないかと心配している。うそのような、ほんとの話で、学校でオナニーのやり方まで指導してしまうところがあるそうだ。私は、そこまでやる必要など、ないと思う。
 人の愛し方や、自分の性欲コントロールなんて、なんとなくわかっていけばいいのだ。悪いことが起きるとしたら、その原因は、きっと別のところにある。女性を大切にする気持ちを育てない環境だったり、やみくもに性欲を否定する家庭だったり。まあ、人を人として、まっとうに接することができる人間だったら、そう無茶な結果にはならないだろうと思うのだ。
「ねーねーねー。どうやって精子を卵子のとこに送るの」
 突然、耳元で二重奏が聞こえてきた。
 今度は、兄と妹の二人がかりだ。
「おかあさんに、妹産んでほしいんだもん。おとうさんの精子、どうやって送ればいいの」
 妹は、真剣なまなざし。ごまかすことはできないようだ。でもでもでも、私は絶対教えたくないぞー!
「べたべた、ひっついてればいいの。うんと仲良くべたべたしていれば、精子は卵子のとこに行くの」
 うそは言ってないぞ。セックスとは、とどのつまり、究極のいちゃいちゃにすぎない。「えー、どんなふうにべたべたすればいいの」
 そこまでつっこむか、おまえは。もう、これ以上はよ〜言わんぞ。
「と、といれ〜」
 私はトイレに逃げ込んだ。しかし、これも一時しのぎだとわかっている。
 トイレの外では、二人の知りたがり屋さんが、興味深々で待っている。絶対絶命!
 そこに、また救いのチャイムが。
「はーい。あ、お父さん!」
 なんて間の悪い男だ。私はトイレからしばらく出ないぞ。あとは頼む。
 静かに息を殺し、ドアの向こうのやりとりに耳をすました。
「おとうさん、おかえり〜」
「ねえねえ、お願い。おとうさんの精子を、おかあさんの卵子に送って」
「な、なに〜っ!」
 どたどたどた。右往左往している夫の足音。どうやら、とっさに逃げだそうとしているらしい。逃げてどうなるもんでもないだろ、ったく。
「待って〜」
 追いかける子供の声。
「みか〜!」
 悲鳴のような、夫の声。
 私は、トイレの便器に腰をかけたまま、声を殺して死ぬほど笑いこけていた。


◆執筆者後記
 「古畑通信1」
 キムラタクヤは、いい男だけど演技が下手だ。だけど、あれを佐野史郎がやったとしたら、ハマりすぎててこわすぎ。うちの息子は、毎日名探偵ごっこに興じている。彼が今抱えている一番の難問は、「校庭の鎌倉を壊したのはだれだ」。

人妻日記(4)

● MacがIBMに負けた訳

 我が家には、パソコンが三つある。Macintosh、Windows、DOSと、タイプも勢揃いだ。「あとは98とTOWNSね」とつぶやいたら、旦那に無視された。コレクションはできないようだ、ちぇ。
 いつも私が使っているのは、IBMのThinkPad230Cs。ここには、Windows3.1が入っている。が、普段はDOSでVZを使ってなんでも処理しているので、Windowsを使っているとは言えない。VZのマクロは、2400でアクセスしても、ダウンロードに2分とかからないほどミクロサイズだ。だから、ハードディスクはいつもすかすかだ。これはこれで、贅沢な環境といえるかもしれない。
 旦那が使っているのは、MacintoshのLC475。ハードディスクもメモリも、かなり気の毒なマシンだ。だが、本人は「かわいいかわいい」と猫かわいがり状態である。スタートアップスクリーンは弓月光さんのイラストだ。アイコンをクリックすると「うふっ」と笑う仕様になっているらしい。遊びにきた友人に、「趣味に徹している」と絶賛されたことがある。

 このThinkPadに、MIDIをつなげようとしたことがある。RolandのSC55MK2をつなげるためには、専用のドライバを組み込まなくてはいけない。組み込むつもりが、いつの間にか入っているものまではずしていたらしい。はずしただけならまだしも、なぜかドライバそのものを削除してしまったらしいのだ。MIDIどころか、WAVEサウンドまでならなくなってしまった。DOSを使っているうちはそれでもいいのだが、ひとたびWindowsの世界に入ると、音がないのは我慢できない。音のならないWindowsのちゅーちゅーまうすは、実に情けない。
 どうにか直らないものかと、通信でダウンロードしてきたドライバを色々入れ替えてみたが、状態は回復しなかった。唯一どうにか音がなるドライバを見つけたが、これを組み込むとちゅーちゅーまうすが「じゅーじゅー」と鳴く。げんなりした。が、無音よりはマシだ。しかたなく、そのドライバのまま数ヶ月を過ごした。
 今年に入って、ふと保証期間のことを思い出した。保証期間なら、ただで修理してもらえる。主婦は、とかく「ただ」に弱い。早速メーカーに電話をして、引き取りに来てもらった。
「美加、ThinkPadないと原稿書けないやんか。どうするんや」
 心配する旦那に、Macintoshを指さして言った。
「これ、貸して」
「あ」
 その夜、Macで通信していた旦那が短く声をあげた。見ると、Macintoshの画面が大きく歪んでいた。
「壊れたかな」
 旦那のつぶやきに、血の気がひいた。今この子がやられてしまっては困る。
「ぶってみたら直るかも」
 蹴飛ばそうと出した私の足を、押さえつける旦那。
「余計に悪くなるやろ」
 技術者である旦那は、今こそ俺の出番とばかりに腕まくりし、張り切ってあちこち触りまくり、リセットしまくった。が、相変わらず画面は歪んだままだった。数時間が空しく過ぎ、彼はついに音を上げた。
「だめだ。修理に出そう」
「しゅ、修理? どのくらいかかるかな」
「せやな。2週間くらいやろか」
 2週間? 原稿締め切りをすばやく計算する私。だめだ、間に合わない。
 仕事が、仕事が、仕事が。原稿が、原稿が、原稿が。
 ThinkPadを修理に出したことを、激しく後悔する。こんなことなら、もうしばらく「じゅーじゅー」で我慢するんだった。
「やっぱり蹴飛ばしてみようよ」
 店に電話する旦那の背中に、未練がましく声をかける私。
 しかし、ThinkPadを一度も蹴飛ばさなかった私の蹴飛ばし説は、いかにも説得力不足だった。 

 こうして、我が家2台目のパソコンが入院することになった。旦那は、Macintoshを店まで車で運んで行った。ThinkPad用の机と、Macintosh用の机が、並んでのっぺらぼうになった。私の胸を、風がふきぬけていった。
「まだ、もう一台パソコンがあるじゃないの」
 記憶力のよい読者は、ここでつっこみをいれたいはずだ。
 だが、私はまだ残りの一台がどういうパソコンであるかを言っていないということに、お気づきだろうか。
 残りの一台。これが、いつも「いい電子手帳をお持ちですね」と間違われてしまうほどに小さい、ヒューレット・パッカード社の手のひらサイズパソコン、HP100LXだったとなると、話は別だろう。
 非力である。あまりに、小さすぎる。ハードディスク代わりのメモリカードは、容量が若干10Mで、その中のほとんどはすでにシステムとアプリでいっぱいである。メモリ残量を見たら、すでに1Mを切っていた。
 いざという時のために、通信ソフトをインストールしておいたのには助けられた。が、この容量では、通信ログを保存することができない。1日や2日ならどうにかしのげようが、修理はもっと長くかかるだろう。私の心は暗く沈んだ。
 しかし、泣こうがわめこうが、今私の所有しているパソコンは、これ一台っきりしかないのだ。ここは腹を決め、これ一台で乗り切る決心をするよりしょうがない。
 まず、ファイラーの中身を確認してみた。限りあるメモリだ。無駄な資源は、できるだけ排除しなければならない。ターゲットとなるのは、ゲームのたぐいだ。ゲームなんぞ、なきゃないでなんとかなる。ちと寂しいくらいは、我慢しなくちゃしょうがない。思い切って、ばっさばっさと消去していく。が、先日手に入れた脱衣麻雀ゲームだけは、どうにも捨てることができなかった。軟弱である。
 次に、辞書をあきらめることにした。私が入れていたのは英和・和英辞典だったが、総計して約1M。これを一気に削除した。この時点で、すでに残りメモリは2Mを越えていた。これだけあれば、通信と原稿書きに支障をきたすことはないだろう。少しほっとした。
 ためしに通信してみた。設定もばっちり。さすが通信の鬼だと、自分を誉める。
 ふと旦那が心配になり、姿を探す。そういえば、彼も通信なくては生きていけない人間だった。大丈夫だろうか、人格崩壊を起こしていないだろうか。
 ぴぽぴぽという電子音にリビングを覗くと、旦那はすでにドラクエにはまっていた。なんという、適応能力の高いヤツ。なんだか無性に腹が立つ。あたしが死んでも、こいつきっと半年で再婚するな。
「Macintosh、哀れなり」
 旦那の背中に、言葉を投げつけてやった。
 翌日、100LXで巡回し、メールが届いているのを発見した。何気なく文面に目を走らせる。と、そこには「先日の原稿を大幅に変更したく候」とあった。差し出しの名前を見ると、いつもお世話になっている編集部の人。なにがあろうと、彼の指示にはノーとは言えない。がっくり肩を落としつつ、手作業で通信ログから自分の書いた原稿をダウンロードする。リライトだ、リライトだ。100LXでリライトだ。あまりの不幸続きに、思わずLX系の某フォーラムで愚痴った。が、メンバーの反応は同情の余地もない。
「LXがあれば、できないことはありません!」
 ああ、ここに書いた私がばかでした。よりによって、LXをメインマシンにしている凄腕の方々が集まる場所で愚痴るなんて……(sigh)。

 しかし、悪いこともそう続くはずがない。
 ThinkPadが我が家から消えて3日目。IBMサポートセンターから電話があった。
「壊れてません。ドライバが合わなかったみたいです。ドライバを出荷時のものに戻しますか」
「そうしてください」
「すると、ハードディスクをフォーマットしてしまうことになりますが……」
「だいじょーぶです。バックアップはとりました」
「では、そうします。えっと、そうなると今日、明日中にはお返しできると思います」
 私は、自分の耳を疑った。
「え、そんなに早くですか。では、家に着くのは……」
「少なくとも、今週中には」
 目尻にうっすらと涙がにじむ。素晴らしい! IBM偉い! すっかり感激した私は、受話器に向かっておじぎをした。
「ありがとうございます! ありがとうございます! これから私、一生IBM製のパソコンしか使いません!」

 ThinkPadが我が家から消えて5日目。再び、彼は私の元に帰ってきてくれた。
「えーなあ、おまえは」
 そろそろドラクエに飽きてきた旦那は、私が快適に通信している様を見、さすがにいらついてきたようだった。
「僕のMacはまだ直りませんか」
 持ち込んだ店に電話してみる。と、意外な返事が返ってきた。
「そうですねー。あと十日はかかりますね」
「なにぃ〜?」
 旦那は叫んだ。
 店に持ち込んだ時点で、「1週間はかかります」と言われたMac。5日たって連絡してみると、なぜか十日に増えている(笑)。彼が叫ぶのも当然だろう。
「それはないでしょ〜」
 すでに泣きそうである。ざまあみろ。ドラクエなんぞに浮気をするから、こういう目にあうのだ。ふふん。
「APPLEの負け、IBMの勝ち」
 立ち直れない旦那に、さらに追い撃ちをかける妻であった。


◆執筆者後記
 ドラゴンボールもセーラームーンも、どこまでも続ける気らしい。子供たちは大喜びだが、子供たちの親はうんざりしている。ドラゴンボールをずっと録画している友人は、「死ぬまで録画し続けてやる」」と開き直ってしまったようだ。

人妻日記(5)

■恋をすれば

 友が、離婚するという。仲のよかった夫婦なだけに、にわかには信じられない。
「なんでまた!」
「ふふ」
 友は、いつになく低い、色気のある声で笑った。
「しょうがないでしょ。恋しちゃったんだから」
 瞬間、返す言葉が見つからない。いつ? どこで? なんで? 聞きたいことは山ほどあるが、私は芸能レポーターではないので、どうもプライドが邪魔して質問ができない。下世話な話になってしまい、自分が鼻息荒くなってしまうのが恥ずかしいのだ。わざとすまして紅茶を飲む。頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだ。
「あれ、驚かないの」
 彼女は私の反応を楽しむように、こちらを覗き込む。くそう、このままでは気おされる。
「で、なに。あんた家を出て、いくとこあるの」
「そりゃ、彼のとこに行くわよ。彼ね、仕事をやめてくれたの。私と一緒に、どっか遠くに引っ越して、人生やりなおしてくれるって」
 窓の外に目をやる彼女。どうやら、その彼の姿を浮かべているらしい。やれやれ。
「彼ね、八つ年下なんだ」
 急いで逆算する。30−8は……えっと……うそ! 22才!
「就職したばかりで、ほんとかわいそうなことになっちゃって」
 22才ってことは、あなた、まだ学生に近いものがあるじゃないですか。信じられない。そんなおぼっちゃんに、人生託せるっていうのかこの女は。
「どうやって生活するのよ、そんな若い子、生活力あるの」
「あたしが働くからいいの」
 それって、世間ではつばめっていいません?
「どっちが働いて、どっちが家庭守ってもいいじゃない。彼は家で、私を待っていてくれればいいの」
 不思議に、彼女の言葉に悲壮感はなかった。心からこの成り行きを望んでいたような、彼女の強い意志を感じる。
「ご主人にしてみれば、ショックよねえ。よく許してくれたわね」
「あいつにも女がいたのよ」
「……え。うそみたい。あんたたち、仲良かったじゃないの」
「そうね。彼にしたって、まさかこうなるなんて思わなかったでしょうね。ほんの遊びのつもりで会社の若い子と浮気して、まあそれがアダになって」
「仕返しのつもりで浮気したの?」
「とんでもない! だって、私が彼と付き合いはじめたのとほとんど同時だったのよ、彼の浮気。つまり、自然に双方から離れていったということになるわね」
 自然の成り行きで、浮気ってするものなんだろーか。私には到底うかがい知れない世界だった。うかがい知ろうとも思わないけど。
「というわけで、私引っ越すから。あんたともしばらくあえなくなるわね。住むところが決まったら、連絡するから」
 伝票をもって立ち上がろうとする彼女から、すばやく伝票を奪い返す。
「これからの暮らしがあるんだから。ここは私がおごる」
「そう? 悪いわね」
 よっとバッグを肩にひっかけ、ひっこり笑って手を振って出ていった彼女は、まるで映画の女優のように堂々としていた。奥様連中と喫茶店でモーニングを食べながら、近所のうわさ話をして半日を過ごしていた彼女よりは、ずっとかっこよかった。
「あれはあれで、正解なんだろうか」
 割り切れないまま、カップの底に残った紅茶を飲み干した。
 ふと自分の隣の席を見た、夕食の買い物袋が、ずっしりとおいてある。あたしには、帰って夕食を作るという仕事が残っている。
「わあ、もう5時過ぎちゃってるじゃん。急がないと、子どもが家に帰って来る!」
 慌てて店を飛び出す私。ちょっとだけ彼女をうらやましく思わないでもないけれど、年下の彼と第二の人生を歩き出すエネルギーなんて私にはないし、第一こんな私に恋をする男が現れるなんてこともありそうにない。
 信号を待つ自分の姿をショーウインドウに映し、そのかっこ悪さに思わず目をそむけてしまう。だけど、子どもは「うちのかあさんは大塚寧々にそっくりだ」とか言ってくれるんだし、ま、それはそれでそれなりに。


■マミーちゃんと復縁した午後

「おかあさん、だっこは一日五回までね」
「けち〜。もうちょっとたくさんにしてよ」
「だあめ。私だって忙しいんだからね」
 娘にやさしく、しかしきっぱりと宣言されてしまった。そりゃそうだ。この娘ももう3年生になる。いくらからだが小さいとはいえ、心は着実に成長を進めている。親としてはむしろ、この彼女の姿を喜ばしく思わなくてはいけないのだろう。しかし、私はしょげかえった。私はもう、このぷよぷよのふわふわの小さな体を、思う存分抱きしめることができなくなるのだ。

 部屋のすみでほこりをかぶっていたぬいぐるみに気がついたのは、その娘だった。
「おかあさんの大切なぬいぐるみだったんでしょ」
 スヌーピーによく似た顔とボディを持ちながら純国産種である彼は、小学校時代、一人っ子である私が寂しがらないよう、親から眠りの友として与えられたものだった。彼は、マミーちゃんと名づけられた。文字通り、親代わりである。
 抱きしめると、ふわっと気持ちよかった。一人っ子ではあるが、決して甘やかすことがなかった両親の元で、私はきっと抱きしめられることに飢えていたのだと思う。その日から、私は彼との抱擁におぼれていった。夜毎彼を抱きしめて眠る、熱い日々。彼のつぶらな瞳は私の姿だけを映し、彼の長い耳は私の声だけを聞き、彼の小さな口は私のキスだけを受けた。当たり前だ。なにしろ彼には選ぶ権利がない……。
 この蜜月は、本物の人間を抱きしめて眠るようになった時まで……つまり結婚するまで続いた。だっこは、やっぱり本物の人間に限るとわかった時点で、彼はあっさりお払い箱となった。彼はベッドの上からたんすの上へと住処を変え、すでに十数年がすぎていた。

 さて、その彼だ。久しぶりにしげしげと眺めてみると、すっかりその風貌を変えていた。白かった体は、ほこりにまみれてどす黒くなっている。おしりの縫い目がほつれて、中のつめものがはみ出している。一時、あれほど私の渇きをいやしてくれたこの子だったのに、今やこのていたらく。人の情というものは、かくも変わりやすいもの……と、自分の薄情を棚にあげる。

「かわいそうに。こんなにくたびれちゃって」
「洗ってあげればいいじゃん。お風呂にいれてあげよーよ」
 娘の提案により、昨日のお風呂の残り湯に洗剤を混ぜ、彼をつけこんだ。彼は、いったん底に沈み、再び川に流れる土左衛門状態でぷくーっと浮き上がった。どず黒い体とその状況は、かなりグロテスクに見えなくもなかった。しかも、そんな彼を「このままではきれいにならないから」と、何度も底に沈める私。ちょっとサディスティックな快感に酔う。ひひひひひ……。
「あ、あのあのあの」
 娘が私の笑顔におびえ、後ずさる。
「あ、あたし友達と遊んでくるから!」
 早々に逃げ出す娘。薄情なのは、母親譲りだからしょうがない。
 数十分入浴をした彼は、その後ベランダのかごの中にいれられた。ぽかぽか春の陽気の中、彼はのんびりと横たわった。存外幸せそうに見えた。ほこりをかぶってすさんで見えた彼の大きな目も、すがすがしく澄んでいた。
「娘がね、私から自立しようとしているの。またあんたのお世話になっていいかしら」
 ベランダで彼の隣に座り、そんな風に語りかけながら、久しぶりに彼としっぽり過ごした午後だった。


◆執筆者後記
 春休み。「子どもが家にいるなんて、うっとおしいわよねえ」という奥様方が多い中、「さびしくなくていい」という私は異色な存在のよう。が、4月新学期が始まって、子どもは再び学校へ戻ってしまった。亭主は毎日会社だし。そして私は、ワイドショーをつけっぱなしにする日々へと舞い戻ることになる。はぁ。

人妻日記(6)

■電話ってムズカシイ

 電話の声は、魔法の鏡と同じだ。本人の気付かないところで、その本性を全て明らかにしてしまう。とてもいい人だと思い、長年つきあった知人だったのに、一度電話しただけでげんなりして、なんとなく疎遠になってしまうことが、多々ある。百年の恋が、みるみる色あせたこともある。それだけに、私は電話の声に気をつかう。
 それでも、よく「あら、お休み中でしたのね」とか「お疲れのよう。ごめんなさい」と相手に気遣われることが多い。どうも、眠い時のわたしの声は独特で、すぐにわかるらしい。本人は一生懸命に明るく応対しているつもりなのに、必ず見破られる。これが、けっこう口惜しい。

 こちらから電話をかけた時の、最初の相手の対応は結構気になる。名前を告げた瞬間に、ふと暗い声になってしまうひとがいる。そのあと、いくら明るい声で話をしても手遅れである。私の電話は相手にとって迷惑だったのだ、と思ってしまうのも無理のない話だ。 反対に、名前を告げた途端1オクターブも声を張りあげて「きゃあ、みかさん!」と喜んでくれる友達などは、うれしくて、うれしくて、何度でも電話をかけたくなってしまう。特に用事がない時にでも、ちょっと声を聞きたくなってしまう。もしかしたら、相手にとってとても迷惑な話なのかもしれないけど……。

 人とつきあうのが苦手な女性がいた。人としゃべる時に、どうしても固いものいいになってしまうので、彼女にはなかなかうちとけた友人ができない。
 ある日、ふとしたきっかけで彼女の家に呼ばれることになった。私は人と話をするのがそう不得手ではない。しかし、この時ばかりはちょっと躊躇した。彼女相手に、何を話せばいいのだろう。想像通り、向かいあって座る二人の会話はぎこちないものとなった。沈黙が何度となく訪れ、その後に言葉を無理矢理続けていく。そんな時間が過ぎていった。 そろそろ帰ろうかと思い始めた頃、彼女の家の電話のベルがなった。
「失礼」
 席を立ち、受話器をもった彼女。「はい」という返事が聞こえた。やはり固い声である。が、次の瞬間、
「はあい!」
 柔らかく、楽しげな声が聞こえてきた。彼女の声帯からこんな声が出るとは、とても信じられない。だが、電話をとったのは、間違いなく彼女だ。
 電話を切った彼女に、私は質問した。
「楽しそうな声だったわね。今の電話、どなたから?」
「主人なの。営業マンだから、外からいつもこうやって電話をかけてくるのよ」
「ああ、いいわねぇ」
 心の底から、そう思った。彼女とご主人のいい関係が、この電話だけで全部わかってしまうというものだ。ご主人は、彼女の優しい「はあい!」が聞きたくて、きっと何度も電話をしてしまうのだろう。私だって、こんな声で電話をとってくれるような人がいれば、きっと何度でも電話してしまうだろう。
「わたしが電話しても、今みたいな声で返事してもらえるとうれしいなあ」
 彼女にそういうと、無表情だった彼女がぱっと明るい顔をした。
「お電話くださるの?」
 その後、すぐに彼女の家に電話をかけ、約束通りの「はあい!」を聞いたことは言うまでもない。あっという間に私たちが親しくなったのを見て、知人は首をかしげた。
「あの人って、つきあいにくくない?」
 正直に答えようとしたのだが、「彼女の電話の声が好きだから」なんて理由を理解してもらえるとは思えなかった。
 そこで私は、
「いい人よ。恥ずかしがり屋なだけよ」
 そういって、こっそり微笑むにとどめた。

 電話の切り際も、これまた肝心だ。
 挨拶もそこそこに受話器を置くのは、どうも早く切りたかったに違いないなどとかんぐってしまう。
「それでは、さようなら」相手がそういった後、「じゃ、また」と言おうとして、最後の「また」を言う前に、受話器をおかれてしまうことがある。こういう時は、握手しようと差し出した手が取り残されるような、ほのかな淋しさを感じさせられる。

 最近、電話を持ち歩く人が増えてきた。いつでも連絡が取れる安心さはあるけれど、そういいことばかりでもない。何度か砂をかむ思いをさせられた経験から、私は携帯電話をあまり信用できなくなってしまった。
 先日、携帯電話をもっている知人に電話をかけた。電話のベルがなる。何度もなる。あしかし、当の本人は出て来ない。
 携帯電話は、電話を受けたくない場合、電源を切ることができる。だから、呼びだし音が鳴っているということは、本人が電話を受ける準備ができているということになる。それでも、出ない。これにはどうも合点がいかない。しつこい性格の私は、どうしても電話をつなげたい。これといった用事もないのに、1時間に6回かけ直した。が、つながらない。
 いよいよあきらめようと思い、最後にもう一度ダイアルしてみると、今度は本人が出た。
「どうして出なかったの? 何度もならしたのよ」
「あ、ごめん。ウォークマン聞いてたから」
 がっくりくる。

 いつも家にいないA君は、ポケットベルしかもっていない。家にいないんだから、電話は無駄になる。彼の方針は、理にかなっている。
「いつでもベルならしていいから」
 彼はそういう。が、これもムズカシイ話だ。ポケットベルをならせば、彼はすぐに電話を捜しにいかなくてはならないのだ。電話を見つけ、小銭を捜し、電話番号を調べ、うちに電話をかけなくてはならないのだ。これだけの作業を相手にさせるとなると、よっぽどの用事でないとならないような気がする。
 彼は、うちのバンドのベーシストだった。練習日の相談なども電話で済ませることが多い。こういう連絡は、たいてい夜中のうちに行われる。しかし、夜中外に出て、電話を探さなければならないとなると、これは一苦労である。寒い冬ともなると、さらにそれは厳しくなる。それだけの苦労を、彼に強いることになるわけだ。
 彼に連絡をとらなければならない。でも、彼を寒い夜風にさらしていいものなんだろうか。私は電話の前で、たっぷり悩んでしまうことになる。かけるべきか、かけざるべきか。悩んでいても、結局かけなくてはならないには違いないのだから、たっぷり自己嫌悪に陥りながらダイアルすることになる。彼からかかってきた電話に、やたらと謝ってしまったりする。どこか割り切れない思いが残る。

 留守番電話が得意だという人を、私はまだ知らない。相手のいない電話にむかってしゃべる馬鹿馬鹿しさったらない。さらに、みょーに緊張した声を相手に聞かれ、笑われてしまうシーンまで思い浮かべてしまう。だれにとっても、これが楽しい訳がない。
 うちの留守番電話には、娘の声が入っている。大人のそっけなく機械的な応答は、まったく返事したい欲求をそそらない。しかし、子供の声というのは不思議で、なんとなく何か返事を返したい気分にさせられるのではないか。そう考えたからだ。
 外出から帰って留守電を再生してみると、たいていの声が笑い声から始まっているのが楽しい。娘のたどたどしいしゃべり方に、まず笑ってしまうらしいのだ。中には「脱力した」という人もいた。いろいろがんばらなくてはやっていけないようなこの時代、脱力する必要を感じたら、うちに電話してみることをお勧めする。


◆執筆者後記
 占いの本を調べた母親から、「あんた今年絶好調よ」と言われた。いわく、何をやってもうまくいくそうな。こういう時だからこそ「気をつけなさい。大きな石につまづくこともあるのよ」だって。つまづくことを恐れて、なんの人生よっ。

薬局日記(1)

はじめに

 先月、「人妻日記」をさぼってしまってごめんなさい。さぼっている間に、なぜか薬局で働くことになってしまい、わたしは「人妻」から「白衣のおねえさん」になってしまったのでありました(おねえさんじゃねーだろー、という苦情は一切受け付けません)。
 ということで、こちらの日記もタイトルあらため「薬局日記」とさせていただくことにしました。相変わらず、シンプルかつわかりやすいタイトルではある(笑)。
 「人妻日記」同様、「薬局日記」もご愛読いただきますよう、お願い申し上げます。

■ 通りすがりのパートさん募集

 あー今月も仕事がないよー困ったよーこのままではいかんいかんと首をふりながら、自転車で町を駆けぬけていた時のこと。ふと見ると、こぎれいな薬局があった。私の目をひいたのは、その薬局のドアに貼られていた手書きポスターの赤く大きなポップ字。
 「パートさん募集中! 詳細は面談にて」
 これだ。即決で自転車を降り、店の中へ。レジのおねえさんに「表の張り紙を見たんですけど」というと、彼女は奥の調剤室へ。店長らしき人に話をする。と、「すいません、では履歴書をもってきてください」という。おいおい、履歴書もなにも、ここで働くと決めた訳じゃねーよ、と今にして思えば尊大な態度の私。むっとして「とにかく条件などをお聞かせいただきたいのですが……」と。おねえさん、かなり慌ててその旨店長に伝える。
 今度は、店長自らお出ましである。「では調剤室のほうへ、どうぞ」と、奥へ案内される。が、お茶は出ない。
「で、あなたのいう条件とはなんですか」
 店長、ストレートな話しぶりである。こちらとしても、こういったタイプの人のほうが話が進めやすくていい。
「はい、実は私フリーライターをやってまして、その関係上、火、水、木は休ませていただきたいのです」
「なに、兼業ですか……?」
 店長の顔が曇る。当然である。ちと正直すぎたかな〜と後悔するが、まあ今となっては後の祭り。正直者には福があると信じ、回答を待つ。
「ところで、あなた出身地はどこですか? 」
「は? あの、生まれは長崎ですけど……」
「長崎! ということは九州ですね。九州おなごか〜。よかね、よかね。よし、採用決定」
 店長、いきなり私の手を握る。
「いやあ、わたしは福岡なんですよ。九州の人は、よかですよね。もうあなたに決めますよ、いいですか? ほかの仕事探しに行ってはだめですよ。どうします? 明日からでも働きますか?」
 とんとん拍子である。あまりの展開におたおたしてたら、いつの間にかパート決定となっていた。なんとアバウトな。ここらあたりでは、出身地で職が決まるらしい……。
 いきなり明日から、というのもなんなので、とりあえず来週から、という約束で店を出た。考えてみれば、履歴書も出していない。「ついでの時にもってきてもらえればいいよ」と、店長。こんなんで、本当にいいのだろうか。

■ まずはトイレ掃除

 最初にやらされた仕事は、トイレ掃除であった。その日一緒に仕事をすることになった、かおり嬢とトイレに向かう。
「わたしトイレ掃除なんて、やったことないです〜」
 かおり嬢はのたまう。彼女、これがとんでもない美人! なんでこんな薬局でくすぶってんだよ、さっさと「美少女コンテスト」にでも出て、芸能人になりな、と言ってやりたいほどの。年は十八、おいしい頃である(おいおい)。もちろん、彼女にトイレ掃除など断じてさせる訳にはいかない。
「あなたはいいの。わたしがやるから、見てて」
 猫なで声のわたし。美人には滅法弱い。
 トイレには何種類もの芳香剤がおいてあって、さすが薬局、と妙なところで感心する。 ドメストでがんがん汚れを落とし、スプレーをひと吹き。掃除完了!
 ふとタンクの上を見ると、生理用ナプキンが。
「これって、店のやつ?」
「ううん、なんかわからない。前からあるの。勝手に使っていいらしいよ」
 ううむ、店長が用意しておいたとしたら、それはそれなりにこわい話である。どうか違いますように。

■ 店長は大竹まこと

 この店長だが、顔はまるっきし大竹まこと。で、悪いことに口調まで大竹まこと。でも、負けるもんか。たとえ、「おまえなんかもう45才だろ」だの「あんまりブスだから、ビタミンCやるよ」だの言われたって、負けるものか!
 店長は、どうやら店に勤めている人の健康管理まで面倒みたいらしい。「おおい、かおり。今日おまえ二日酔いじゃないか。これ飲んでおけ」と胃薬をくれたりする。顔色、声など、いろんな要素から体調を診断できる能力をもっているようだ。先日など、「おい、岩田さん。あなた、今日調子悪いね。どうしたの」「いえ、あの……」実はひどい生理痛に悩まされていた。が、さすがに店長には言えない。ところが、「生理か? でも確か前回が二週間ほど前に来たばかりだし」と、店長。じょ、じょーだんじゃない。どうして店長がわたしの生理まで知っているのだ。「当然だろう、おまえ、生理用ナプキン買ってたじゃないか。社員の体調を知っておくのは、店長として当然だ」。察しがいいのも、よしあしだと思う。

■ 人材の宝庫、薬局

 ところで、薬局というところは、勤めてみて初めてわかったことだが、マンウォッチャーにはこたえられない場所である。いろんな人がやってくる、というだけだったら、普通のスーパーなどで働いても同じだ。しかし、薬局はそれだけではない。ここを訪れる人たちは、みんなあそこが痛かったりここがつらかったりするわけで、おのずと愚痴が多くなり、その中から彼らなり彼女なりの生活が語られ、人生をのぞきみたりすることができてしまう場所なのだ。人の話を聞き出すことがやたらと好きな私は、いつの間にかお客さんとしんみり話し込んでしまって、いつも店の利益のことしか考えていない店長にうんとにらまれてしまったりする。しかし、これはわたしの趣味の領域なわけで、いかに就業時間中といえど、いかに店長であろうと、わたしのマンウォッチング&インタビューを止めることは不可能なのである、と開き直ってしまう。だっておもしろいんだもん。

■ かっちょいいおじいさん

 時々店を訪れ、栄養ドリンクを買って帰るおじいさん。彼は最高にかっちょいい。最初に彼がレジの前にたった時など、ぼーっと見とれてしまい、おつりの金額を間違ってしまったほどだ。
 彼は、おそらく八十を過ぎた白髪の紳士。いつも着流し姿で、げたの音をさわやかに響かせながらやってくる。
「すまん」
 彼はレジの前に立って、一声かける。
「はい、いらっしゃいませ」
 顔をあげると、目の前には、真っ白なひげが。あごの下、三十センチほどもあろうか。頭はスキンヘッド。目はまるで中国の古い本の挿し絵に出てくる仙人のように優しい。
「すまん、これを買いたいのだが」
 声は低く、口調はあくまで丁寧。
「はい、二四〇円です」
「おお、そうか」
 おもむろに、懐から財布を取り出し、レジの上に小銭をならべる。
「二四〇円だな。これでいいか」
「はい、ちょうどいただきます」
「おお、そうか」
 この、「おお、そうか」というのが口癖のようだ。いちいち重々しく相槌を打っていただき、なぜか非常に荘厳な気分となる。レジをうっているだけなんだけど。
「うむ、面倒をかけたな」
 おじいさん、一礼してさっそうと立ち去る。手にはドリンク剤。あの言葉遣いで、ドリンク剤だぜ! かっちょよすぎる。彼の後ろ姿をぼーっと見つめてしまう私。ドリンク剤にビタミン錠をおつけすることすら、忘れてしまっているとも気づかずに。

■ 天真爛漫な高校生

「これください」
 明るい声で差し出されたのは、岡本理研のゴム製品。
「はい、一九八〇円です」
 ふと見ると、お客さんは高校生くらいの男の子。体はスマップの香取くん並みにでっかいけれど、笑顔はまだまだ少年のままだ。いけない、いけないと思いつつ動揺を隠せない私。彼が、こんな顔した彼が、あんなことしてしまうのだろうか……色々想像は広がっていき、すでに顔は真っ赤。
「はい、じゃ二〇〇〇円で」
「ありがとうございます」
 心がけて落ち着いた声を出す私。が、手は震えていたりする。くそう、相手がこれほど平気そうなのに、おねえさんがこれでは情けなさすぎる。
 ビニールの袋を出し、気がついて、あわてて紙袋にとりかえる。こういった商品は、店を出てから他人の目にふれないよう紙袋に包むことになっているのだ。が、紙袋に包むことにより、かえってひどく目立ってしまうこともあるという事実はいなめない。
 はたして彼は、
「あ、袋いいですから。このままもっていきます」
 もっていたかばんに箱のままつっこむ。
「あ、ありがとうございました」
 にっこり笑って、レジから離れる彼。しっかし、堂々としたもんだ。それにしても、このままでいいですって、このままでいいですって! もしかして、このままお使いになるのかしら! もう彼女が外でお待ちなのかしら!
 私はきゃあきゃあと一人で盛り上がり、ドアの外をうかがってみたりして、「ばかもの」と店長に怒鳴られるはめに陥ってしまった。

薬局日記(2)

●大竹、ぶーたれる。

 その日の大竹は、朝からあまり機嫌がよくなかった。この大竹というのは、薬局の店長につけた仮の名前である。本名はもっと違った名前なのだ。井上とか、山田とか、そういったごく普通のありふれた名前なのだが、オンラインで発表する文に本名で登場させるのはいささか気がひけるので、また気がひけるようなことを書こうと思っているので、ここでは仮名にさせていただくことにする。なお、なぜ「大竹」なのかというと、かの「大竹まこと」に顔も性格もとてもよく似ているからである。なんとおそろしいことであろう。かの大竹まことが自分の上司だったらと、一度想像してみていただきたい。出社拒否になりこの店を辞めていったたくさんのパートさんたちの気持ちが、きっとかなり理解できるようになるであろう。
 その朝、私は特売の準備のため、普段より30分も早く出勤した。ただでさえ原稿の締め切りが迫っていて(クイックサンドの編集部さん、どうもごめんなさい……)ロクに睡眠時間もとれないというのに、特売のためにこうしてわざわざ早く出勤してあげるなんて、私ってなんて偉いのでしょうと自画自賛しつつ、お店に入っていった。そこには、さらに早くから出勤している大竹がいた。そこで私は、作り笑顔で元気に彼に挨拶をしてみた。
「おはようございま〜す」「なっとらん!」「??????」
 おはようございます、といえば、たいていの人はおはようございますと返すことになっている。ところが、こともあろうに「なっとらん!」と返ってきた日には、とっさに何をいえばいいのかわからない。わけもなく、あたふたとうろたえてしまう自分が情けない。
「え、なっとらん? わ、わたしがですか?」
 おそるおそるたずねる。大竹、ぎろっと私をにらみつける。
「なんで岩田さんがなっとらんのだ。あんたのことじゃない」
「す、すみません」
 なんで謝らなきゃなんないのかよくわからないけれど、大竹ににらまれるととりあえず謝りたくなるのが不思議である。30分も早く出勤したという自己満足は一気に消し飛び、私はこそこそと着替えに走った。なんだかわからないけど、今日の大竹は機嫌が悪いらしい。できるだけ触らないようにしよう、と強く心に誓った。白衣に着替え、勝手に特売の準備を始める。大竹、わたしをじっと見ていた。なにかいいたげな表情だが、私はそそくさと店の掃除に走る。とにかく彼の視界に入ってはいけない。まるで獰猛なハンター犬に狙われたバンビ(んなかわいいもんか)になった気分で、なによりも今日という日に仕事にパートに来てしまった自分の不幸をなげき、呪った。

●ドタキャンの理由はどうであれ……

 大竹の不機嫌は、どうやらもうひとりのパートさんのドタキャン(解説:土壇場でキャンセルすること)が原因らしい。
「いそがしいのはわかっているのに、どうして休めるかなあ」
 大竹は、鼻息荒く私に言い放つ。わたしに聞かれても、理由がわからないのでなんとも答えることはできない。あいまいに笑うと、「その笑い、日本人の悪いくせだ」とどなられ、また謝ることになる。とほほ。と、大竹ため息をひとつ。
「なんでも、旦那さんのおかあさんが入院したんで、看病しなければならないそうだ」
「まあ、大変ですね。それじゃ、しょうがないですね……」
 なんだ、ちゃんとした理由があるんじゃないか。うっかり彼女を擁護するような発言をしてしまった私は、結局もう一度謝らなくてはならない羽目に陥ってしまう。とほほほ。「なんでしょうがないんだ。そんなの、昨日のうちに連絡できる話じゃないのか。今日になって突然来られないといわれたって、代わりの人を手配する暇はないだろう。こちらが困るのはわかっているじゃないか」
 大竹、いささか手前勝手だとはいえ、筋道はきちんと通った愚痴をいう。うんうんとうなづきながら、でも病気って突然かかるものだから、お葬式といっしょで予定の組めるようなもんじゃないよね、と軽く心の中で反論してみる。だけどさっきやっちまったようなヘマは繰り返したくないので、口にはしない。私だって、学習する能力ぐらいは持ち合わせている。
「とにかく昼から、ゆかりちゃんが応援に来るから」
 ゆかりちゃん(これも都合により仮名。彼女はまだ18才。妙なことをここに書かれてしまい、ついにお嫁にいけないようなことになってしまっても、私には責任能力がないから)は、やったら美人である。KDDのコマーシャルで「ゼロゼロワンダフル」とかいっているのが似合いそうな美人である。男だけでなく女も面食いである私は、彼女が一番おきに入りだったりする。ゆかりちゃんが来るとなれば、勇気百倍。今までの不幸も倍にして返すというものだ。

●ゆかりちゃん(仮名/18才、美人)とおやつ

 午後になり、ゆかりちゃんが登場した。彼女は、美人なだけでなくやたらと勢いがいい。
「岩田さーん!」
 昼休みから戻ってきたわたしに、カウンターから元気に手をふってくれる。
「ゆかりちゃーん!」
 わたしも手をぱたぱたと振り返す。大竹、調剤室からうんざりした顔でこちらを見ている。やばい、と再び縮こまりながら着替えに走る。どうやら、まだご機嫌は治っていないらしい。
「ちょっとお昼を食べにいってくる」
 わたしがカウンターに戻ると、大竹はそれと入れ代わるように店を出て行った。もちろんその前に、私とゆかりちゃんに仕事の指示をするのを忘れはしない。大竹は合理的な考えの持ち主であり、ここの管理者でもあるので、少しでもパート代を無駄にしたくない。店にいる間は、思いっきり働かせる主義である。あっぱれ。
 が、大竹はまだまだ甘い。ゆかりちゃんという子をわかっていない。
 彼女は大竹がいないとなると、にっこり笑って私のそばにきてこういった。
「岩田さん、お茶にしましょう」
「はい」
 一も二もなくおーけーである。自動販売機からお茶を買いに走った。戻ってみると、彼女はなんと店の商品のお菓子を買っている。
「ついでだから、お菓子も食べましょ」
 にっこり。この笑みの魅力に抵抗できるはずもない。「そんなことをしてはだめ、今日の大竹は機嫌が悪いの、きっと見つかったら危険よ」といいたい気持ちは、あっさりとくじけてしまう。
「はい、そうしましょ」
 わたしもにっこりを返す。心をよぎった悪い予感は、気がつかなかったことにする。

●大竹の沈黙

 ミスティオを飲みつつ、オーザックを食べておしゃべり。とても勤務時間とは思えない。わたしとゆかりちゃんは、女の子らしいうわさ話に花を咲かせる。あのメーカーのセールスマンは赤井秀和に似ているだの、あのメーカーのおにいちゃんは結構いけるだの、そういった他愛ない話だ。
 と、いきなり大竹が帰ってきた。
 昼休みは普通、1時間ほど戻ってこないことになっている。ところが、今日に限って30分そこそこで戻ってきてしまったのだ。ゆかりちゃんとわたしは、とっさにカウンターに走る。
「いらっしゃいませ!」
 店に入ってきた客がのけぞるほどの大声が二人分響き渡る。大竹は、わたしたちをちらっと見て調剤室へ入っていった。やばい。調剤室の机の上には、無防備な姿のオーザックさんが置き去られたままだった。ゆかりちゃんをみる。
「なんかヤバくないですか?」
 のーんびりと彼女は私にいう。きっととてもとてもヤバいはずよ、と目で答える。
「いいですよね。いざとなったら、店長にもオーザック食べさせてしまいましょう」
 ゆかり、おそるべし。
 カウンターで接客に追われる私達。タイミング悪く、メーカーのセールスマンがどんどんやってきちゃあ調剤室に入っていく。ああ、そこに入っていかないで。そこには私たちのオーザックが……。
 やがて、セールスマンのお兄さんと大竹が調剤室から出てくる。さぞ怒っていることだろうと思い、彼のほうをみることもできない私たちだった。それでも勇気を振り絞りちらっと大竹の背中をみる。と、大竹突然振りかえった。目があっても黙っている。なんでもなさそうな顔で、仕事を続けている。
「オーザック、見ましたよね、店長」
「そりゃ見たでしょ。あそこにおいてきたんだから」
「でも何もいいませんね……」
 顔を見合わせるわたしとゆかりちゃん。沈黙がおそろしい。いっそ、怒鳴ってくれたほうがよっぽどすっきりするというものだ。それを知ってかしらずか、素知らぬ顔でずっと仕事を続ける大竹。ごめんよーと、足元にすがりたい。許しを乞いたい。

●帰宅時間、逃げ去る。

 大竹は沈黙したまま。
 さしものゆかりちゃんも、段々元気をなくしていく。
 と、商品のタイマーに四苦八苦している大竹を発見。なにをしてるんだろう。わたしとゆかりちゃんは、その姿をそっと盗み見る。それに気がついた大竹、困った顔して一言。「これ、ポケットベルと違うんか?」
 未だ緊張のとけていない私は、とっさに意味を把握することができず、もう一度その質問を頭の中でくり返してみる。なんだって? タイマーがポケベル?
 と、ゆかりちゃん、突然爆笑し始める。
「やだー店長。それタイマーですよ。んもー店長ったらー」
 ゆかり、おそるべし。あまつさえ、店長の背中をばんばんぶったたいている。
「ポケベルだってーポケベルだってー。いいじゃん店長、このタイマーもって歩いてごらん。いつかベルなるかもしれないよ」
 なんてことまで言ってしまっている始末。
 じりじりと後ざすりする私。ぷるぷる震えている大竹の肩。あまりの恐怖にめまいがしそうである。しかし、ゆかりちゃんはまだ笑っている。こいつ、恐いもの知らずにもほどがあるというものだ。
 が、他人の身の心配をするより先に、私は私を守らなくてはいけない。
「あ、わたし時間ですね。もう帰ります」
 退社時間より10分ほど早かったが、なにしろ出社が30分早かったのでいいことにしてしまう。容赦なく、そそくさと帰宅準備を始める私。が、それでもなお「もー店長ったらお茶目なんだからー」。ゆかりちゃんは、爆笑の手をゆるめない。大竹は、耳まで真っ赤にして耐えている。
「さようならー」
 逃げよう。こういう時は、とにかく逃げるに限る。
 まだ笑っているゆかりちゃんの幸運を祈りつつ、店という震源地からできるだけ遠くをと、駆け出してしまう私であった。


◆執筆者後記
 友達から手製の絵葉書をもらった。屋根の上に猫が座っている。
 そのまあるいお尻がどことなく作者を思い出させ、ここんとこしばらく見ていない彼のまあるい面影を追いかけてみた。

薬局日記(3)

●いろんなひとがいるもんだ

 薬局で働き始めて、すでに4ヶ月がたった。店にはいろんな人がくる。中には、一瞬我が目我が頭を疑ってしまうほどの方も……なんといいましょうか。まあ、世の中にはいろんな人がいるもんで。

●あたしを見てよおばさん

「ちょっとあなた」
 カウンターで納品書の確認をしていた私は、その声に顔をあげた。
「はい、いらっしゃいませ」
 そこに立っていたのは、推定40半ば過ぎの有閑マダム風の女性。なぜかカウンターから少し離れた場所で、軽く腰をひねったポーズをとっている。
「ねえ、あなたちょっと見てよ」
「はい?」
 なにを見ろというのだろう。きょろきょろ彼女の周辺を見渡すが、特に目をひいたものはなかった。
「あのー、なにを見ればよいのでしょうか? 」
 おそるおそるその女性にたずねる。彼女はなぜか、まだ腰をひねったままである。
「んもお、なに見てるのよ。ほら、わたしわたし」
「はい、お客さん」
 ばかのように繰り返す。見たぞ。見たけど、それでなにを言えばいいのだろう。
「ね、わたし、どう?」
「あ、あのお客さんですか?」
 もう一度彼女の全身に視線を注いでみる。ことによるとこれは、なにか誉めろってことかもしれない。どうしよう、どうしよう。はっきり言いましょう。彼女には、取りたてて誉めるべきポイントがなかった。どこから見ても、普通のマダムである。まあ、服には金かけてるなあってことはわかるけど。ここはひとつ、服ほめとくか。
「素敵なお召し物ですね〜」
「1900円のバーゲン品。見る目ないわね」
 沈黙。笑顔が凍りつく。
「ちっがっうでしょ〜もう。服じゃなくて、中身よ中身! ほら、わたし、どう? 」
 どう、っていわれたって……なんて答えればいいのよ。泣きそうである。
「ヒントは……」
 全身冷や汗。
「ヒントォ? もうーやんなっちゃうよねえ。わたし、変わったでしょ?」
 変わったでしょっていわれたって、わたしはその人と今日初めて会ったのだ。無茶を言わないでほしい。
「変わったでしょっていわれましても、私お客さんとは初めてお会いしたんですから」
 彼女は聞いちゃいない。じたんだを踏むマネをして、奥のたなへ走っていった。今度はなにを始めるつもりだ。もうすっかり納品書どころでなくなってしまった私は、書類をしまって応戦に備えた。
「これよこれ」
 彼女は、手にダイエット商品を握ってもどってきた。
「あたし、これ買って飲んだのよね。で、あたしどうなった? ね、どうなった? 」
 ははーん、やせたっていってほしいんだ、この人は。でも前にも言った通り、そもそも昔の彼女をわたしは知らない。
「素敵ですよ。とてもお元気そうで」
 うそはつけないのである。やせたかどうかは知らないけど、元気いっぱいに見えるのはうそじゃない。
「かぜひいてるのよ」
「……ああ、そうですね。だからちょっと頬が赤いのかな。お熱があるんでしょうか」
「ううん、熱はないの。それよりほら、わたしどうなのよぉ」
 助けてくれ〜。
 彼女はさらに腰をくねらす。どうしても、わたしに嘘をつかせたいらしい。
「そうですね。素敵なプロポーションで」
 汗びっしょり。もうこうなったら、閻魔様に舌ひっこぬかれてやる。
「そう? まだ一週間しか飲んでないんだけど」
 ……ううううううう。どついたろかこいつ〜と思うけど、そこは商売。ぐっとこらえるが、手のこぶしは確実に震えている。
「じゃあね、次の問題いきます」
 勘弁してくれよお。カウンターのこちら側に座り込みたい私。
「今日わたしは何を買いにきたのでしょうか?」
 この人、完全に遊んでる。くそう、負けてちゃいけない。わたしは果敢にも迎え討つ決心で立ち上がる。
「そうですねー。ダイエット成功だから、次は内側からきれいにビタミン剤かなっ? 」「ぶぶー」
 彼女は再び、奥のたなへ走る。
「これでした〜」
 果たして彼女が手にしていたものは、さらに大きいサイズの、同じタイプのダイエット商品だった。
「もっとやせるわよ〜」
 彼女の笑顔の前に、砕けちる私であった。

●やってみてよおばさん

「これ、どうやって使うの?」
 そのおばさんは、カウンターでいきなりヘアカラーの箱を開き、中身を全部広げてしまった。止める暇もない。あっけにとられている私に、彼女は繰り返す。
「これ、使い方わからんのよー。ねえちゃん、悪いけどここでやってみてくれん? 」
「ここで、今……ですか? 」
 ご存じのように、ヘアカラーは2種類の液体を混ぜ合わせ、髪を染める液体を作る。この液体は、作ってすぐに使用しないと品質が変わってしまい、だめになる。だから、このカウンターで二つの液体を混ぜてしまうと、そのままここで髪を染めてしまわなくてはいけなくなる。そうなってしまうと、営業上ひじょーに困る!
「あのお客様。これは、作ったらすぐに使わなくてはだめなんで、今ここでお作りする訳にはいかないんです」
 答えながら、さりげなく中身を元通り箱に戻そうとする。が、彼女の手にはしっかりと商品が握られている。
「あ、そうなの? でも教えてよ。これは、どこにつけるの?」
 やめる気配はない。しょうがないので、取り扱い説明書を広げる。ま、いいや。これを買ってくれるんだろうし、私が黙っていれば、大竹に知られることはないだろう(ラッキーなことに、大竹はその時お昼休みで出かけていたのであった)。ここはせいぜいしっかりと使用方法を教え込み、お得意さんになってもらおうとそろばんをはじく。
 なんてことを考えているうちに、おばさんはいろいろ商品をいじりはじめる。
「これをここにつけるん?」
 適当な部品を適当な場所にくっつけてる。およそはまりそうにない場所にはめる、それも力ワザで。そんなことしてたら、壊れるぞ。慌てて私はそれを彼女から取り上げる。
「違います。これはここに……」
 いくつかポイントを図で示しながら、丁寧に説明する。ふんふんふん、と彼女は気がなさそうに返事をする。絶対にわかっていないと思うけど、聞く気がないならしょうがない。
「ふうーん。ありがと。なんかわかったわ。ありがと」
 手を振って、カウンターから離れ、出口に向かうお客さん。
 私の前には、無残に広げられたヘアカラーがまだ散らかったままである。
「あのーお客さん! これ、どうするんですか?」
 慌てて彼女を呼び止める。おいおいおい、ほったらかしは勘弁してくれえ。これ、買ってくれるんじゃなかったの?
「ええ? ああ、それと同じのうちにあるから、いらへんわ。ありがとね」
 なんでもなかったかのように、出口の外に消える彼女。ちょっと待ってよ。じゃ、さっき2つの液体をあなたに言われるがままに混ぜ合わせてたら、どうなっていたのよー。これで、誰の髪を染めろというの。慌ててドアの外に走り出すけれど、おばさんは驚くべき速さで店の外から消え去っていたあとだった。
 悔し涙にくれながら店に入ろうとすると、店の中にはカウンターのありさまを見て、怒りに震える大竹の姿があった。


◆執筆者後記
 薬局に訪れるお客さんの8割が、風邪薬を買っていく季節となった。イソジンのうがい薬についているカバの指人形、なぜか大人気。おやじ風の男が、「これいいなあ」とつぶやく。「どうぞ」と差し上げる。なんか恐い。

薬局日記(4)

■ドラマ3本

 薬局にはなにがある?
 薬。もちろん。あとは?
 薬局といってもドラッグストアだからね。
 おいてあるものは薬だけじゃない。
 石鹸、シャンプー、キッチン用品、化粧品、ごみ袋。
 意外なところでは、お菓子やお米、もちなんてのもあるぞ。
 ここで、生活必需品をかなりそろえることができる。
 薬局というより、コンビニに近いかもしれない。

 でもわたしは発見したんだ。
 薬局には、もっとすごいものがある。
 聞いたらきっと笑っちゃうだろうね。でも本当なんだってば。
 薬局には、ドラマがある。それもすんごいのが。

■おばあちゃんと息子さん

 おばあちゃんの年の頃は、80過ぎ。彼女、足が弱っていてうまく歩けない。そこで、息子さんがいつもショッピングカートの上に彼女を乗せて、押して歩いている(ショッピングカートといっても、小型のやつじゃなくて、上に人が座れるよう設計されたもの。よくおばあちゃんたちが押して歩いているよね)。息子は、彼女の年から考えておそらく60前後。いつも、かたかたカート押して店に入って来る。おばあちゃんは、ぶらぶらとそのあたりの雑貨を眺めて歩く。息子は、まっすぐお菓子コーナーに向かう。
 やがて息子は、手にチョコレートをもっておばあちゃんのそばへ行く。
「これほしいのか?」
 息子は、黙って首を激しく上下に振る。おばあちゃんはしぶい顔をする。
「これ、いくらや?」
 ちらっと私たちを見る。
 チョコレートの値札には、「150円」と書いてある。
「154円ですね。消費税入れまして、154円になります」
 おばあちゃん、恐い顔して息子をにらみつける。
「こんな高いのはあかん。もっと安いのにしな」
 息子はちょっとうつむいて、足をどたどた踏みならした。
「だめだといったら、だめだ。こんな高いのは買えない」
 うらめしそうにチョコを見、おばあちゃんを見、あきらめたようにチョコを棚に戻しに行く彼。が、またすぐに別のチョコをもってくる。
「これはいくらや?」
「これは……180円ですね。消費税込みで」
「あかんって!」
 息子、しょげ返る。今度はなかなか戻しに行かない。
「困ったなあ……お金が足りへんの。わからんか?」
 おばあさん、財布を取り出してバラバラと小銭をカウンターの前にぶちまける。
 そこには、1円、5円、10円が数枚あるのみ。はっきりいって、これだけのお金で何か買うのは難しい……という額だ。
「これだけしかないんや……」
 おばあさんは、わたしの顔をじっと見つめる。見つめられたところで、「じゃあこれだけでいいですよ」とは、パートのわたしにはとてもいえたもんじゃない。しょうがないのっで、わたしも黙って彼女を見つめ返す。
「買えんよなあ」
 おばあさん、悲しそうに小銭をしまいながらつぶやく。息子は、それでもチョコを離そうとしない。と、そこでこんな小柄なおばあさんから出る声だとは到底思えないような大声で、
「返しといで!」
 と怒鳴った。息子は縮み上がり、慌てて菓子コーナーに戻しにいった。
「ほしたら、帰ろ」
 息子は、まだしょげた顔のまま、カートにおばあさんを乗せた。ふたりは、ドアの外へ消えて行った。店の外で、もう一度立ち止まり拗ねた顔をしてみせる男。きびしい顔で怒っている様子のおばあちゃん。でっかい身体をゆすりながら、泣きそうな男の顔。
 わたしとゆかりちゃんは、なんともいえない気分でしばし沈黙したままだった。

■ナロン少年

 雨の日も風の日も、ナロン顆粒という頭痛薬を買い続ける少年がいた。いつも無表情で、一言「ナロン顆粒2つ」といい、千円札数枚を置く彼を、わたしたちはいつも「ナロンくん」と呼んでいた。(余談だが、わたしたちはよくお客さんに勝手に呼び名をつけている。いつもリポビタンDをケースで買われるお客さんを、感謝をこめて“リポDさん”、精力剤“赤ひげ”をご愛用くださっているおじいちゃんを、“赤ひげさん”と呼んでいたりするのであった……ごめんなさい>該当者さん)
 彼は、毎週のようにナロンを買いに来る。しかも、いつも2個。
「おかあさんが使ってるんだろうか」
「それにしても、毎週ナロン2箱は多すぎない? これ、一人で飲んでるとしたらもうかなり危ないよ。癖になってるとしても、いきすぎだよね」
「身体によくないよ」「大丈夫なのかしら」「頭痛もちなのかしら」
 わたしたちは、いつも頭が痛くて、イライラして息子に当たり散らす母親像を想像した。で、毎週「ほら、ナロン買ってきなさい!」とか怒鳴られているのかしら、なんて思ったりして、ああなんてかわいそうなナロンくん、だからあんなに無表情なんだわ……と同情したりしていた。
 ある日、またナロンくんがやってきた。
 ああ、ナロン顆粒2つね……わたしは彼の顔を見るより早くカウンター下のナロンを見た。と、なんと品切れで1つしかない!
「あの、ナロン顆粒2つ」
 少年は、いつものようにそういうとお金をおいた。
「ごめーん! 今ナロン1つしかないの」わたしがそういうと、彼はびっくりしたように目を見開いて、黙り込んでしまった。
「ごめん、ごめんね。1つでいい? 」
 ナロンくんは、ゆっくりとうなづいた。
 本当は、全然よくないよーっていう顔だった。帰ったら怒られるのだろうか……わたしは彼の受けるしうちを想像し、涙ぐみそうになった。
「ナロンの錠剤ならあるんだけど……」
「いいです。顆粒じゃないとだめなんです。じゃ、顆粒ひとつください」
 彼は、低い声でそういった。相当参っている。困った、おかあさんを怒らせないためのなにか、おまけでつけてあげないと。
 粗品コーナーを見ると、イブA錠の試供品があった。ナロンの錠剤が飲めないひとがこれを飲むとは思えないけれど、いざという時にはないよりマシだろう。彼にそれを渡し、「これも頭痛薬だから。これはあげるからね」
 彼は黙って、頭を下げた。

 数日後、踏み切りで見慣れた少年が友達とふざけていた。
「これ押したら踏み切り開くんとちゃうん」
 声の主が指さしていたのは、非常ベルだった。
「ねえねえ、これ押したら開く?」
 とわたしに無邪気に話しかけてきたのは、あの無表情な顔とはまるで別人のナロンくんだった。
「これ〜? あかんよこれ、非常ベルやんか」
 わたしも笑いながらいった。よかった、彼にもこんな子供らしい顔があったんだ。
 踏み切りがあがり、少年たちは笑いながら走っていった。なんとなくほっとしながら、わたしも踏み切りを渡った。
 翌週、彼はまたナロン顆粒を二つ買いに来た。
 今度は、子供のプラモデルをおまけにつけてあげた。彼はうれしそうに、はずかしそうに笑って「ありがとう」といった。

■包帯をください

 さて、最後はかなり強烈なのをひとつ。

 彼女は、熱でもありそうな赤い顔で、ちょっとふらつきながら店にはいってきた。
「すいません、包帯ありますか」
 彼女の顔色から想像し、早くも解熱剤を用意していたわたしは、慌てて彼女を連れて包帯コーナーにご案内した。
「どこに巻かれるんですか? 」
「あのね、おなかに巻きたいの。だから太いのがいいんだけど……腹巻きみたいなのないですか?」
「腹巻きはありませんねー」
「そう。じゃ、普通の包帯でいいわ。それとね、眼帯」
「はい、こちらです」
 眼帯をさしだす。
「ありがと」
 彼女は眼帯と包帯を手に、またふらふらと表に出ていってしまった。
 私は一瞬唖然としたが、すぐ気を取り直し、彼女を呼び止めた。
「お客さん! お金払ってください!」
「あ……ごめんなさい」
 ゆっくりと戻って来る。まるで雲の上を歩いているような足取りだ。
「ちょっとぼーっとしていたものだから」
 財布からざらざらと小銭を広げてしまう。ゆっくりと数えている姿まで、尋常ではない。
「あのね、それから、目薬が欲しいの。あとね、足首を怪我して血が止まらないから、それを止めるための包帯ってあるかしら?」
 さっきはお腹に包帯を巻きたいっていったよね。次は、眼帯。で、今度は目薬と足首に巻くための包帯……。その人、いったいどんな怪我をしているんだろう?
「お客様、そんなにあちこち怪我をして、しかも血が止まらないってのはちょっと大変な状況なんじゃないでしょうか。応急処置をするより、まず病院で診てもらったほうが……」
「そう思うでしょ。そうなの。病院で診てもらったの。でね、もう帰ってきているの」
「あ、じゃあ手当ては一応済んでいるんですね」
「手当てっていうか、もうあの子死んでるからね」
 ……今、彼女なんていった? 死んでるって言わなかった? わたしは自分の耳を疑いつつ、彼女をつくづく見返した。どう反応していいか、とっさにわからなかったのだ。
「死んでしまったから、もうお医者さんも診てくれないのよ。一応お葬式は済んだんだけれどね、あの子の身体から血が流れて、止まらないのよ。かわいそうだし、このまま血が流れ続けたら、失血死ってことになるかもしれないじゃないの」
 待って、お願い待って。わたしは彼女の言ったことを頭の中で何度も繰り返し、どうにか理解しようとした。お葬式が終わって、で、血が止まらない? 死んだ人ってのは、普通血は出ないはず。それに、お葬式が終わったらもう身体はないんじゃないの? 普通、焼いてしまうよね。その人の身体って、いったいどこにあるわけ?
 それに、なに? 血が止まらないと、死んでしまうって? もうその人、死んでいるんじゃないの? え? え?
「わからないでしょ? わたしにもわからないの。あの子、そこにいるのかいないのかもわからないの。いるんだけど、触っているといなくなってしまうの。でもね、布団に寝かせるじゃない。すると、血はどんどん流れてきて、シーツが真っ赤に汚れるのよ。これがとても困るから」
 やめてくれ〜助けてくれ〜と叫びたかった。が、叫んでもしょうがないんで、つとめて冷静にわたしはもう一度考え直してみることにした。おそらく、彼女の家族であるだれかが、ある日事故かなにかで亡くなったのだろう。で、お葬式も終わった。彼女はその人の死が信じられない。となると、その人の幻覚を見ることもあるだろう。あるいは、彼女の言うように、本当に幽霊が出たのかもしれない。とにかく、彼女にはその姿が見えてしまうのだ。見えるその人の姿は、いつも血を流していて、きっととても痛そうなんだ。だから、彼女はたまらなくなって、こうして死人のために包帯を買いに来ていると、まあそういうことなんだろう。
「どうかしら。あの子の血を止めてやるには、どうしたらいいかしら」
「そうですね……普通、止血には足首をしばったりしますけど」
「ああ、それ無理ね。足首ないんだもの。足首の先が全部なくなっているから、しばったりできないわ」
 足の先がない! ああもう〜。
 頼みの綱の大竹は、遠くからこっちを何度もうかがっている。こういうややこしい事態になると、すばやくどこかへ逃げ去ってしまうのはあいつの得意技だ。こうなったら、一人で乗り切るしかない。
「ねえ、困ってるの。あの子の血を止める方法、なにかわかりません? 飲んだら血が止まる薬ってないのかしら……」
 彼女は、何度も同じ質問を繰り返す。わたしは困り果てた。どうにかして、彼女に納得して帰ってもらうしかない。とにかく、この薬屋ではその人の血を止めることはできそうにないということをわかってもらうしかなさそうだ。
「お客様、すいません。この店では、その人の血を止めることはできそうにありません。おそらく、やっぱり病院のほうへ相談なさったほうがいいかと思いますが」
 丁寧にゆっくりと、言い聞かせてみる。彼女は当惑した目のままで、ゆっくりとうなずいた。
「そうね。でも病院も診てくれないのよ。あの子は、もう助からないのかしら」
「申し訳ございません」
 ほんと、申し訳ないと思った。彼女を助け、気持ちを楽にさせることは、ここではむずかしい。彼女が本当に困っているということはよくわかるだけに、かなりつらかった。
「わかったわ。じゃ、頭痛薬くださる? 」
 彼女は、お財布の中身をもう一度覗きながらいった。
「わたし、今生理なのよ。生理痛がひどくて……」
 わたしは、ジグゾーパズルの最後のピースを手に入れたような気がした。なるほど、そういう訳だったのか。
 ルナティックという言葉には、気狂いという意味(ニュアンス)がある。月の周期を軸にして、女は感覚だけの生き物になる時期がある。その時であれば、こうやって死人の出血を見ることだって、もちろんあるだろう。あるいは、血が止まらないのは、死人ではなく彼女のほうかもしれない。
 しかし、今はそんな分析をしている場合ではない。彼女に頭痛薬を渡し、お金をいただいてお釣を渡す。言葉こそあまり交さなかったけれど、お金を渡す手の中に“つらいでしょうけど、どうにか乗り切ってください”という気持ちを込めてみた。いずれにせよ、彼女がその死んだ人を深く愛していたことは間違いない。だって、すでに死んでいる人を死なせないために、寒い冬空の下を駆け回り包帯を探すなんてこと、そうそうできるわけないんだから。
「あの子を二度と死なせないために」
 これ以上激しい愛の言葉を、わたしはこれまで聞いたことがなかった。


◆執筆者後記
 先日、生まれて初めて慰安旅行というものに参加した私は、たいして飲んでもいないのに、いきなり盛り上がってみせる大人たちのおふざけ姿にうんざりしてしまった。はげおやじのかつらで遊ぶんじゃねー! 本気で気にしてる人が、気の毒すぎるじゃないかー!

薬局日記(5)

■祝! パートさんがやってきた。

 新しいパートさんがやってきた! 長かった苦難の日々よ、さようなら。これからは、もう堂々と仕事を休むことができる! わたしと大竹は、おそらく今日本でこれほど歓迎される職場はないだろうというくらい盛大に、彼女たちを歓迎した。
 思えば、ゆかりちゃんが「就職活動しますので、辞めさせてください」と言ったその日から一ヶ月、つらい、悲しいの連続だった。週に一度の公休日でさえ、「あの、私明日お休みなんですけど……」「なに? するってえと岩田さんは、明日わたしに昼食をとらせないつもりなの? 」という会話のもと、しぶしぶ認められるという日々。大竹が「おれは病気になるぞ、絶対に」といえば、私は「なったら店、終わりますね」と冷たく言い放つ日々。それもこれも、ほかに店をみる人が「いない」せいだった。音をあげた大竹は、店の中といい外といい、特売セールの広告といい、ありとあらゆる場所に「パートさん募集」と記した。その7文字には、「なんでもいいの、わたしたちをタスケテ」という叫び声が含まれていた。
 公募してから約一週間。パート募集のポスターを見ました、という女性が数人訪れた。大竹は熱心に面接し、情熱を込めて質問を繰り返した。「就職の予定はないかね? 」「結婚の予定は?」……つまるところ、「すぐ辞めない人を雇いたい!」の一点のみを問題にしているのだ。
 そんな中、二人の女性が面接をパスした。一人は、来年秋に結婚予定の伊藤さん。もう一人は、すでに新婚の小池さん。「結婚予定の人でもよかったんじゃないですかー」と私が責めると、「一年働いてくれるというのなら、わたしはもうそれだけで」と泣かんばかりの大竹。気持ちはわかる。
 さて、いよいよパートさんが来る、第一日目。いつもより早く大竹は出社する。「おはよう! 」笑顔がまぶしい。「おはようございまーす」パートさん二人も、元気よく挨拶しながらやってきた。店の中に、店員が4人もいるという贅沢に、わたしは目がくらみそうである。
 彼女たちを前に、大竹は言う。「岩田さんは君達の先輩になるわけだから、彼女の言うことをよく聞いて、早く仕事を覚えるように」。せ、先輩。大竹から一度も持ち上げてもらったことのない私は、全身にどっと汗をかいた。先輩だって。どうすればいいの。
 「よろしくお願いしまーす」かわいらしい二人が、そろっておじぎをする。「こちらこそ〜」私も慌てて頭をさげる。大変だ。どうやら私は、なんだか自分でもよくわからないままやっていた仕事なのに、それをひとに教えてあげなくちゃならない立場になったらしい……。

■行方不明のラベラーちゃん

 翌日から、パートさん特訓が始まった。とはいえ、やっとつかまえたパートさんのご機嫌を損ね、またあのつらく悲しい日々に逆戻りなんてことは絶対に許されない。大竹、いつもの勢いはどこへやら、「コーヒー飲むか? 」「疲れたら休めよ」……やったらと優しい。
「岩田さん、店長ってめちゃめちゃ優しい人なんですねー。こんなよくしてもらって、なんだか悪いみたい」
「そうそう、なんか天使みたいよねー」
 お二人が声をそろえ、店長をほめたたえる。想像だにできなかった光景だ。
「そ、そーなのよ。優しいの。こんないい職場、めったとないわよー」
 わたしはうそつきでしょうか。ごめんなさい、神様。でもやっぱり、ほんとのことはとても言えません。大竹が、実はとっても大竹だってことが彼女たちに知られたら……あっという間に、あの地獄の日々の復活です。神様ごめんなさい。どうか、それだけはお許しください。
「んでは、仕事の流れから説明します」
 良心の呵責をふっとばすべく、私は元気よく特訓開始の宣言をした。わたしは、最初の一週間彼女たちの教育係を努めることになっていた。自分が教育係をすると、たちまち正体がばれてしまい、彼女たちに逃げられてしまうかもしれない可能性におびえた大竹の妙案だった。大竹、結構ご自身を知っていらっしゃる。

 レジの使い方、商品の並べ方、荷物の確認の仕方、商品の基礎知識。最初はこんなもんだろう。まず第一日目として、入荷された商品を店に出すところからはじめる。
「簡単よ。同じものがあるところに並べるだけだから。値段は、同じものがあればそれをつけてちょうだい。商品がまるで残ってなかったら、こっちのレジで値段を確認します」「はーい」
 二人は勢いよく、商品を手に店に出ていく。てきぱきと商品を並べる姿を見て、私は一人悦に入る。うんうん、素直だし飲み込みは早いし、二人ともいい人材だった。大竹の人を見る目は、確かだったようだ。なんたって、私を採用したくらいだもの。人を見る目があるのはわかっていたんだけどさ……。
「あの、ラベラーちゃんがいないんですけど」
「ラベラー……ちゃん? 」
 カウンターに戻ってきた小池さん、あどけない笑顔を浮かべたままで「そう、ラベラーちゃん」と繰り返す。
「あ、小池さんがさっきもってたラベラーのこと? 」
 ラベラーちゃんの意味が把握できず、ぽかんとしている私の横から、伊藤さんが助け船を出す。あ、ラベラーね。そか、さっき持ってたものね。それにしても、なんでラベラーごときに「ちゃん」がついてしまうのだ? 疑問符だらけで小池さんを見る私。が、彼女はいっこうにそれを気にするでもなく話を続けている。
「そうそう。あの子、突然失踪しちゃったの。さっきまでちゃんとわたしのそばにいてくれたのにー」
 あの子。ラベラーが、あの子。
 まだ会話についていっていない私は、ただぼんやりと二人の会話を聞いていた。
「商品、店に出してたでしょ? その時どっかにおいてきたんじゃない? 」
「そうかなー。ちゃんともってたはずなんですけど」
 伊藤さん、急遽小池さんのラベラー(商品に値段のついたシールをつける機具のことである、念のため)捜索に入る。と、ほどなく彼女はラベラーちゃんを手に戻ってきた。
「ありましたよー。すっかり冷えちゃってるけど」
「ご苦労様。で、どこにあったの? なんで冷たくなっちゃってるの? 」
「それが、あの」
 伊藤さん、うつむいて答えにくそうに答えた。
「栄養ドリンクの冷蔵庫の中にあったんです。リポDの上で、冷たく冷やされてました」「あーそうそう。最初に私、リポD出したから」
 小池さん大喜び。ラベラーちゃんとの再会に感激している様子だった。
 ちなみに、ラベラーを冷蔵庫で冷やしたヤツなんてのは、4店舗合わせても彼女が初めてである。教育係であるはずの私は、すっかり任務をあきらめてカウンターにつっぷしてしまった。

 それからだった。ラベラーと小池さんは、お互いよっぽど相性が合わないのかなんなのか、一日一回は大捜索を行って小池さんのラベラー探しをしなくてはいけない羽目に陥ってしまっていた。ある日、ラベラーちゃんは使い捨てカイロの箱の奥深くに沈み込まされていた。また別の日、ラベラーちゃんはお菓子コーナーのポテトチップのお友達になっていた。こうして、ありとあらゆるところからラベラーが発見され、そのたびに小池さんの名前が連呼されるようになった。
「小池、またラベラー落ちてたぞ」
 大竹がさもおもしろそーに言う。実は5回に1回の割合で、伊藤さんがどっかに忘れてきたこともあった。が、だれもがラベラーの姿を見かけると小池さんの名前を呼んでしまう。
「不公平だわっ」
 ぷっと頬をふくらして、小池さんが怒った。それでも、5回に4回はほんとに彼女が忘れてきているというのは、厳然たる事実である。つまり、4/5の確率で、小池さんの名を呼ぶのが正解だってことになるのだからしょうがないと思うのは私だけだろうか?

■タオルのカースト制度、始まる

 あ、洗面台のタオルがない。
 洗ってあるタオルがおいてある場所から、新しいタオルを探す。
「ね、これ使ってもいいかなあ」
「さあ、わたしにはなんとも……」
 大竹が口ごもる。
 一枚のタオルの前で、私たち二人はさんざん話し合うことになる。このタオルは使ってもいいものなのか、悪いものなのか。
「タオルですか〜? 」
 ここで、タオル委員たる小池さんのお裁きが入る。
「あ、それはだめです。それはトイレのタオルです。ちゃんと書いてあるでしょ」
 タオルを広げてみると、そこには黒マジックで「トイレちゃんよん(はあと)」と書いてあった。
「ね。全部書いておきましたから、洗面台にはちゃんと洗面台用のを使ってくださいねえ」
 タオル置き場から、全部のタオルを出して点検する。「あたしはぞうきんちゃんです」「台所用ですよん」「洗面台のタオルちゃんです」……ほんとに全部書いてある。たいした根気である。しっかし……ここでも「ちゃん」なんですね。脱力。
「ほんとになあ。店長であるはずの私が、タオルも自由に使わせてもらえないなんて」
 大竹がしょげ返る。以前、自分で勝手にタオル置き場からタオルを出して使い、「あーそれはだめです! それ、トイレのタオルだって書いてあるでしょ! 」と小池さんにがんがん怒られた覚えがあるので、それ以来大竹はタオルを使うことに異常な神経を遣うようになってしまったのだ。ここに、「タオル委員」である小池さんが誕生してしまうことになった。
 小池さんという人は、とてもきれい好きなようだ。いいかげん、乱雑、不潔は許せないタイプらしい。事務所の台所は、あっという間に美しく整えられてしまった。カップはここ、ポットの下にはきれいなミニタオル、お菓子置き場、すべてにきれいなカバーがかけられていった。まさに「改革」である。
「小池さん、コーヒーいれてくれるか」
 大竹が頼むと、小池さんはさっと台所に立ち、コーヒーをいれながら
「それはいいんですけど、漂白剤買ってください。ここのカップ、一回全部ブリーチかけないとだめですよ」
と、交渉を始める。これに懲りて、最近の大竹は自分でコーヒーをいれる。
「コーヒー一杯がかなり高くつきそうだからな」
 ひとりコーヒーをすすりながら、大竹は私に愚痴をこぼした。まさに、下克上。昔の大竹のワンマンぶりはどこへやら、今やすっかり小池さんの天下である。あーおもしろい。 今後、小池さんがこの店をどんな風に変えていってくれるのだろう。この日記のネタのためにも、今後の彼女の活躍に期待してしまう私であった。


◆執筆者後記
 三重は意外と雪深い。雪が降ると、車は止まる。車が止まると大竹は出社できないらしい。おかげで、雪の季節わたしは休むことなく薬局に通い、店を開けることになってしまった……。大竹、たまには店に泊まりこむくらいの根性見せてみろってんだ!

薬局日記(6)

■レディースディのしあわせ

 土曜日の薬局は、景色が違う。
「いらっしゃいませー」
 声を合わせてお客さまをお迎えするのは、3人の美女たち。
「おっ。今日は女の子ばっかりだね」
「そうなんですぅ」
 小池さんは、うれしげに笑顔を向けて答える。
「今日は週に一度のレディースディなんですのよ、お客さま」

 そう。土曜日はしあわせなレディースディ。なんたって、大竹の公休日なのだ。
 ほかの店から来ている薬剤師さんなんて目じゃない。
 店を守るのはわたしたち3人なのだから、もう好き放題。
「いいのよ、週に一度はこんな日もなくちゃ」
 3人は、店をあけたらさっさと奥に引っ込む。
「コーヒーにしましょ」
「そうね。今日くらい掃除しなくたって死にゃあしないわよ」
 とっとと椅子を出してコーヒータイムに突入してしまう。勤務時間わずか5分。
 荷物が届くか、お客さんが現れるまではもうここから動かない決意である。
 もちろん、完全に合理主義的経営者魂を忘れていない大竹は、連絡事項の書類に「今日やっておいてもらいたいこと」をたくさん用意しておいてくれてはいる。が、
「なんかたくさん書いてあるねえ」
「いいよ。あとでやろうあとで。ほら、お昼食べたらちょっと体動かしたくなるじゃない。そん時にでもやっつけちゃえばいいよ」
「そうだよねー」
 結論はあっさりと出てしまい、3人はまたコーヒーとおしゃべりの世界へ帰っていってしまうのであった。大竹、ゆかりちゃんを体験し、小池さんを目のあたりにしてもまだ、「店長の指示は絶対である」という妄想から醒めていないらしい……。

■ババシャツの誘惑

「今日はいいもの持ってきたのよ」
 小池さんは、大きな紙袋から一冊の雑誌を取り出す。
「セシールのカタログじゃん」
「そう。ほら、これってたくさん注文すると割引率いいじゃない。みんなで頼んだらどうかなーって思って」
 われわれは早速カタログをひろげ、品定めを始めた。勤務時間であるということを意識するような輩はいない。
「あれほしいな。あったかいの」
「ババシャツ?」
「うん、そうそう。ババシャツほしい」
「かわいいのあったよ。えーっと……あったあった。これよ。胸のところのレースがかわいーの」
 小池さんご自慢のそのババシャツ、お値段は750円なりとなかなかのお手頃品だった。
「いいね。うんわたしこれ買おうっと」
「あ、じゃあわたしも」
「はいはい……2枚ね」
 小池さん、注文書に早速オーダー数を書き込み始めた。と、その時。
「こんにちはー」
 さる大手メーカーの営業さんが部屋に入ってきた。
「あ、はい!」
 わたしは飛び上がってしまった。なんたって、机の上にはセシールのカタログが広がっている。しかも下着のページである。
「こんにちは」
 冷や汗もので笑顔を向ける。彼は、まだなにも気がつかないようで、しきりにきょろきょろ店長を探している。
「今日、店長は?」
「あいにくですけど、今日は公休日なんです」
 答えながら、微妙に体の位置をずらしてセシールのカタログを彼の視界からさえぎる私。
「そうですか。いや、今日は新製品のご紹介にうかがったんですけど……」
 それでもしばらくきょろきょろをやめなかった営業さん、ある瞬間、ぴたっとその目を止めた。果たして彼の視線の先には、あられもない姿でひろげられたままのセシールのカタログが……! 小池さん、隠してよーっと心で叫んでみたけれど、彼女は注文書を書くのに夢中でそんなことにはまるで気づきそうにない。
「あ、あの……?」
 信じられないという顔で私を見る営業さん。なんと答えたらいいかわからない私は、つーっと目をそらしてしまう。と、
「あ、こんにちはー。○○さんもご一緒に買われます?」
 やっと彼の存在に気がついた小池さん、あろうことか、彼にカタログを差し出してしまう。いきなり下着のカタログをつきつけられた彼(推定年齢50代後半)は、心持ちほっぺを赤く染めている。当たり前である。娘ほどの年頃の女性に下着の写真をいきなりつきつけられて、平静でいられる男なんてそうはいない。
「どうですか? このババシャツかわいいでしょ? 」
「バ、ババシャツってなんですか」
 かわいそうな営業さん、顔を赤くして目を白黒させながら質問している。
「ババシャツっていえば、ババシャツですよ。ほら、冬に着る下着で、長袖のあったかいやつ」
「ああ、あれですか」
 営業さん、丁重にカタログを小池さんに返しながら何度も首をふった。
「なるほど。あれをババシャツというのか……あ、いや。ぼくはいりませんから」
「まーそういわずに、奥様にでも。あ、娘さんいらっしゃったんですよね。どうです、こっちのキャミソールなんてのもかわいいですよ。プレゼントにいかが?」
 すっかりセシールのセールスマンにでもなってしまったつもりなのか、小松さん。営業さん相手に営業を始めている。しかも一歩も引いてない。この勢いで、店でも薬を売りまくってほしいものだが……。
「あのあの、でも本当にぼくはいいですから」
 営業さん、必死で小池さんのセールステクニックから逃れようと努力している。ひかない彼女の言葉をかわしつつ、突然はっと我にかえった彼、にわかに自分の鞄の中から3本の栄養ドリンクを取り出した。
「えっと、これが当社で開発した女性向けドリンク剤の新製品なんですけど……」
 どうやら営業さん、小池さんの営業活動を見ているうちに、ご自分の本業を思い出したらしい。うって変わった冷静な表情と声を取り戻し、わたしたちにそのドリンク剤を手渡しながら、なめらかにセールスポイントや消費者ターゲットなどを説明しはじめる。さすが本業!
「若い女性には鉄分が不足しています。この鉄分を効率よく補給するドリンク剤です。味は、さわやかな青りんごの風味になっています。どうぞ」
 彼は自分にも1本ドリンクを取り出し、早速ふたを開ける。
「試供品ですから、お試しください。ささ」
 わたしたちも、つられてふたを開ける。
「では、かんぱーい!」
 彼の音頭で、いっせいにドリンクを飲み干した。ジュースのようなさわやかな味。ダイエットマニアである小池さんは、ラベルに表示されているカロリーのチェックを忘れない。
「うーんと……このくらいだったら、合格ラインかな」
「意外とおいしいのね。これだったら、ジュース代わりに飲めるかも」
「鉄分補給しとかないと、貧血気味だっていわれたから。これ飲んでいれば大丈夫よね」 3人はそれぞれ勝手に批評をする。おおむね好評だとわかり、ほっとする営業さん。
「では、わたしは次の店をまわってきますんで……。明日店長さんが店にこられましたら、このドリンクの件、よろしくお伝えください」
「はーい!」
 3人は、おいしいドリンクに気をよくしていいお返事をかえす。
「また来てくださいねー」
 伊藤さんが営業用スマイルを彼に向けた。
 その日から、彼の営業活動は毎週土曜日、つまりレディースディとなってしまった。困った顔しながら、結構気に入ってんじゃん。男って、よくわからない。

■肉うどん3本立て

「おなか空いた〜」
 まだ11時過ぎだというのに、これである。レディースディは、とかく食欲に走りがちだ。会話の中の半分は食べ物の話題になってしまう。ちなみに残りの3割は店長の悪口、2割は彼氏の悪口である。つまり、典型的な女の集団なのである。
「どうする。もう注文しとこうか」
 わたしは吉川屋のメニューをひろげる。ここのうどんは、かなりいける。
「そうね。わたしは肉うどん」
「それ、おいしいの?」
「おいしいらしいわよ。この前店長が言ってた」
「じゃ、わたしも」
「わたしもそれにしといて」
「了解」
 伊藤さん、吉川屋に電話をかける。
「すいませーん。肉うどん3つとライス3つ。お昼頃もってきてください」
 なにも言わなくても、ライスをつけてくれている。さすが伊藤さんは気がきいている。ダイエットマニアの小池さんも、わたしより小柄な伊藤さんも、そして ”やせの大食い”だと言われているわたしも、みんな本当によく食べる。店長は、うどんとライスを取るといつもライスを半分残しているというのに、この3人は残した試しがない。

「ありがとうございまーす。うどん屋です」
 吉川屋がうどんをもってきてくれた。待ってましたとばかり、彼女たちはうどんを受け取りに走る。ひとりはテーブルセッティングへ、もうひとりはお茶の用意へと分業体制もばっちりだ。わたしは財布を取り出して、支払いを済ませる係である。
 店を見ながら食べなくてはいけないので、調剤室のテーブルを借りての食事となる。売り場からガラスで丸見えとなるので落着かないことこの上ないが、これはしょうがない。食欲旺盛なわたしたちは、人から見られているからとお上品に食べられなくなるようなやわな神経を持ち合わせていない。
「ささ、食べましょ」
 幸せそうな笑顔を浮かべながら、3人は同時に「いただきまーす」とうどんをいっせいにすすり始める。
「すいませーん」
 もちろん、食事の途中でも客はやってくる。
「はーい」
 口の中のうどんを飲み込みながら、カウンターに走る。レジをうちながら微妙に間をとり、すっかり口を空っぽにして「2565円です(にっこり)」というタイミングも、最近すっかり会得してしまった。ちょっと葱くさいかもしれないが、そのあたりは愛嬌である。
「すいませーん」
 しかし、たまに客の存在に気づかずに食べ続けてしまうことがある。カウンターで何度も「すいませーん」を繰り返した客は、しょうがなく調剤室の窓をノックする。
「お食事中ごめんなさいね。あの、これくださいな」
「あ、はいはいはい」
 慌ててカウンターに走る。客は、窓ごしに3つの肉うどんを目撃し、ごくっとつばを飲み込む。お昼時、お腹の空いていない人はいない。しかも匂いまで漂ってきている。思わず、「おいしそうですね。あれ、どこのですか?」と聞いてくる客の心境はわからないでもない。
「あ、これ吉川屋のです。肉うどん、最高ですよー」
 ここぞとばかり、小池さんが宣伝活動を始める。
 あのさー、だからさー、その営業力でぜひ、薬をね……。


◆執筆者後記
 ミスター・プロテイン。小池さんが作り出した造語である。プロテインとは、たいていの人がご存知のように、ダイエットなどで利用されるタンパク質補助食品である。して、そのココロは。

電車に棲む人々(1)

●なぜか「記者が記者で記者に記者した」の記者に化けたわたし

 かくして(どうしたのか、詳しい話は省略。なんでもこうやってごまかしてしまえるのが日本語の醍醐味ってもんだ)、わたしは今神奈川の空の下にいる。ここで、なぜか「記者」という名前の職業についている。
 まったく無自覚のままであった。気がつけば、手には「記者 岩田美加」という名刺が握られていたのだ。それまで、わたしは自分を「フリーライター」だと信じていた。ある日突然手渡されたこの名刺を眺め、つくづくと「ああ、どうやらわたしの職業は変わってしまったらしい」と実感したのは、この仕事を始めて一ヶ月も過ぎたあたりだった。このあたりの顛末は、また別の機会に書かせていただくことにしよう。
 記者は、ライターとはちょっと違う。どう違うのか説明しよう。ライターは、「主に」家の中にいて、必要に応じて外へ売り込みに出たり、データを集めに出かけたりする。こんな暑い夏には、クーラーのきいた部屋の中で執筆三昧だと、知り合いのライターも言っていた。ところが、記者というのは「主に」家の外に出て、走り回っていたりする。仕事を10だと考えると、取材が8で執筆が2。相手の声を聞いてからでないと、始まらない仕事である。暑い夏に記者という仕事を始めてしまったわたしは、「失敗かも」とかつぶやきつつ毎日暑い都心に飛び出していく。もちろん、取材相手と対面する頃には汗でメークなどあとかたもない状態なので、日焼けしてしょうがない。
 肉体労働である。「都会のフリーライター」というスマートかつおしゃれなイメージはどこへやら。これはまさに肉体労働。間違いなく。しかし、こんな誤算も跳ね飛ばすほどの魅力が、記者という仕事にはあった。おそらく、これを「魅力」と感じる人は少ないだろう。が、現実わたしはこれがあるからこそ、暑くつらい肉体労働の日々を耐えることができたのだ。その魅力とは、「電車」であった。
 電車は、かつてわたしが愛した職場である「薬局」が提供してくれるのと同じ、いやそれ以上の人間観察のチャンスを与えてくれる。ほぼ毎日何度も電車に乗るので、いろんな時間帯にいろんな電車を利用するいろんな人種を見る機会に恵まれるのだ。これは、マンウォッチングを生業とする人間にはたまらない。

●初めてのナンパ

 では、まずシリーズ最初の景気づけとして、初めて電車でナンパされた話をしよう。そう、わたしはナンパ未経験者である。花の大学時代を東京で過ごし、夜遊びしたい放題、盛り場歩きたい放題でナンパ未経験。これは悲しかった。死ぬまでに一度ナンパされたいというのが、わたしの悲願であった。これが、この年(いくつだ、なんて突っ込みはなし)になって成就されたのだから自慢したい気持ちもわかっていただきたい。実は、「聞いて聞いて」状態なのである。
 初めてナンパしてくれた男は、外人であった。浅黒い肌は、なんとなくアジアっぽいイメージ。年の頃は、20代後半か。その時、わたしは相鉄線の遅い電車に乗っていた。車内には人気がなかった。広い座席の真ん中に陣取り、いつものように熱心にHP100LXをいじっていた。ふと気がつくと、隣に男性が座っていた。
「ちょっといいですか〜? 今、何時?」
 妙な発音ではあるが、一応日本語だ。これだけ熱心に日本語を勉強してくれる外人には、親切にしてあげたくもなる。
「えっと、12時過ぎですね」
 にっこり微笑んでこたえた。すると、
「あなた、どこに住んでる?」
 と聞いてくる。黙っていると、
「ねえ、年いくつ?」
 ときた。ちょっとむかっときた。わたしに年を聞くたあ、いい度胸じゃないの。
「教えません」
 怒った顔でこたえた。しかし、敵はまったくひるむ様子はない。
「明日新宿に行きましょう。心配ない。わたしはヨハン、25才の留学生ね」
 と、なんの脈略もなく自己紹介である。
「あなたの名前も教えて」
 名乗られたらこたえなくてはいけない。武士の掟である。
「岩田美加です」
「美加さん、明日新宿に一緒に行きましょう」
「いやです」
「なぜですか」
 ヨハン食い下がる。
「なんでだめですか。わたしが外人だから?」
 そういう問題じゃないと思う、と心の中でひとりごと。
「あなたもう28才。もう大人。恋愛自由ね。おとうさん、おかあさん関係ない」
 年を言った覚えはないが、とりあえず若くいってもらえたので気分をよくする。女って、いや、わたしって馬鹿。
 それにしても、おとうさんおかあさんってなんだ。恋愛自由だからって、ヨハンと恋愛しなくちゃいけないって法はなかろう。
「そうじゃなくて、わたしは行きたくないんです」
「電話番号教えて」
 くじけない奴である。そこは評価しよう。
「あ、降りなくちゃ」
 タイミングよく、わたしの降りるべき駅に着いた。あとは、後ろを振り向かず飛び降りるだけである。
「じゃあね」
 後ろで扉が閉まる。閉まったことを確認して、そっと後ろを振り向いた。そこには、笑顔で手を振るヨハンがいた。つくづくくじけない奴である。

「あ、そういえば、これ生まれて初めてのナンパかも」
 そう気がついたのは、家のドアを開けてからだった。それにしても、最初のナンパがヨハンってのは……。


◆執筆者後記
 薬局から記者へ。まさに「激変の夏!」である。秋葉原の取材で、暑気あたりで道路にひっくり返ったこともあった。電車の中で座り込み、「どうしたの、ねえどうしたの」と世話好きのおばさまに大騒ぎされたこともあった。しかし、そんな環境の変化にも最近ようやく慣れてきた。これからが本番、どんどん出かけてネタを見つけてくるつもり。

電車に棲む人々(2)

●まずは、ごめんなさい

 久しぶりのクイックサンド(*1) である。読者のみなさま、ながらくお休みいただいてしまいゴメンナサイ。お休み中、私は編集部で編集したり、突発入院したり、引っ越ししたりとなかなか忙しい日々を過ごしていました。という訳で、この2月から晴れて東京都民となった私、相変わらずOQ線に乗って電車内の人々を観察する日々であります。

●オジイサンに席を譲られてしまう

 ……どうして目の間が離れてる人は、あごがしゃくれてるんだろう。
 ……どうしてまつげの長い人の唇は厚いんだろう。
 相変わらず、んなしょうもないこと考えながらぼーっと電車に乗っていると、目の前の座席に座っていた人が席を立った。らっきー、やっとこれで座ることができると思い、ふと隣を見ると、運悪くお年を召したおじいさまが立っているのが目に入ってしまった。かくしゃくたる紳士である。どう見積もっても、これは 70を軽く越していらっしゃる。人として、ここは彼に席を譲らねばならないだろう。私は残念そうに、彼の顔をちらと見た。実に間が悪いというか、ちょうどその時彼と目があってしまった。
 突然彼は、手を座席へと差し出した。
「どうぞお座りなさい」
 けっこうなお声である。車内に朗々と響きわたる。
「は」
 なんともつかない返事をすると、彼はもう一度繰り返す。
「いいから、座りなさい。わたしはもうあと3つ先の駅で降りるからいいんだ。あなたが座りなさい」
 ……これは困った。だってだって、私だってあと2つ先の駅で降りるんだもん。
 彼の目を見た。その目は、親切な輝きに満ちていた。しかも、困ったことに彼、威厳までふりまいていらっしゃる。散々悩んだ末、私は肝をすえた。
「ありがとうございます」
 ご厚意は受け取ってしまえ。とりあえず座ってしまおう。あとは野となれ、だ。
 おじいさんは満足そうに微笑んだ。しかし、問題は2つ先の駅。そこでわたしは電車を降りなくてはならない。しかも、彼の予測を反して彼よりも先に降りるのだ。が、よく考えてみるとこのオジイサン、結構無茶な人である。私が彼より長く電車に乗ると決めつけた訳を、ぜひ教えていただきたいものだ。
 なんてことを考えているうちに、駅はどんどん近づいてくる。
 一瞬、3つくらい乗り越して戻ろうかとも思ったが、それもちょっとばかばかしいと思ってやめた。女は度胸、とひとりごちる。
 駅が近づき、やたらと気合の入った私は断固とした表情で立ち上がる。
 お、という顔のおじいさんにむかい、一礼。
「ありがとうございました」
 そそくさと降りる。決して振り返らないこと。私が降りたあとに、あと1駅しか電車の乗っていないオジイサンが果たしてあの席に座ったか、はたまた別の若人に「お座りなさい」を繰り返していたかは、さだかでない。

●それはないでしょ、無茶なオネエサン

 ある日、ふってわいたような災難のお話。

 いつものように、わたしは新宿で電車を待っていた。新宿始発だから、1台乗り過ごせばどうにか座席に座れる。当時まだ海老名に住んでいた身としては、 50分立ちっぱなしは非常に辛く、ぜひとも座る必要があった。幸い、その日は最前列に並ぶことができた。これなら席に座るのは楽勝。私は安心し、いつものようにホームでログ読みなんてしていた。

 やがて、電車がホームに滑り込んできた。速やかに列はドアの前に並び、ドアがあいた。私は難なく席に座ることができた。そこまではよかったんだが……。
 やれやれ。安心したのも束の間。あっという間に席はいっぱいになり、何故かわたしは席の前に押し出された。
「?」
 びっくりして隣をみると、席はいつのまにかいっぱいになっていた。いっぱいなのは分かるけど、なんでわたしが押し出されたの?
 試しに人数を数えてみた。
 はしから数えて1、2……そこには、わたしを含め合計8人もの人間が座っていた。普通、座席人数は7人、昼間だとだいたい6人程度でいっぱいになるはずの席に、8人。これはキツいに決まっている。
 私に与えられた面積は、子供がやっと座れる程度。肩幅にも満たない。
 最前列に並び余裕で座れるはずのわたしが、まるで無理に座席に割り込んだ人のように肩幅を縮めて背もたれにも届かず、申し訳なさそうにお尻を半分だけ滑り込ませている状態。これには納得がいかない!
 キッと隣人をにらんでみるが、彼だって前のほうに並び、余裕で座れるはずだった人。きまりわるそうにうつむかせても、彼に罪はない。しかし、これでは眠ることもできない。まことにけったくそ悪い。
 ゆっくりと見回して、真ん中あたりに悠々と座っているきゃしゃな女性を発見した。あいつのせいだきっと、と決めつける。だって、後ろのほうの人が無理に割り込んだら、きっと真ん中あたりになるに違いないもの。
 私は、呪いの言葉を繰り返しながら席を立った。こんな狭いところに座っていても、全然楽なんかじゃないからだ。もう一台待とう……とホームに降りると、すでにそこには次の列車を待つ長蛇の列が。とてもじゃないけど、座れそうにない。未練たっぷりに今の列車を振りかえると、座席には再びぎっしりと人間がひしめいていた。私の座ってた場所には、今やかなり幅の広いおばちゃんが陣取っている。さっきの8人寿司詰め状態よりも、さらに条件は悪化していた。例のきゃしゃな女性は、雑誌を広げることもできず居心地悪そうに座っている。ざまあみろ、と笑いつつも、私の立った席にそのでっかいお尻を収めたおばちゃんの心意気にすっかり圧倒されてしまった。圧巻、おばちゃん。やっぱり私はまだまだ未熟者である。


◆執筆者後記
 昨年の夏以来だから、かなりのお休みになってしまいました。いろいろおもしろいネタもあったはずだけど、これは全部きれいに忘れてしまいました。自分がどんな文章を書いていたのかも、おかげですっかり忘れてしまいました。ということで、これからゆっくりリハビリさせてもらいます。どうぞよろしく。


*1:クイックサンドは騒人の前身です。

電車に棲む人々(3)

 以前「クイックサンド」(*1)というオンラインマガジンで、「電車に棲む人々」という連載を書いていたことがある(*2)。これは、電車の中で見かけたさまざまなキャラクターを描くという企画だった。何回か続けたらネタは簡単に尽きてしまうだろうと思いきや、東京の電車の中には実にいろんな人が乗っていて、書いても書いても書き足りない。ということで、今回このメルマガで続きを書いてみようと思った。最近は特に、世紀末という時代的要素も手伝ってか不思議な方々と出会う確率が高く、モノ書きとしては嬉しい限りである。

 中でも、この前の体験は刺激的だった。思わずかばんの中からHP100LX(私の最愛のPC。手のひらサイズながら、軽快にDOSが動く。実質的には私のメインマシンであるといっても過言ではない…LXについてのコラムは、また後日)を取りだし、記録に走ってしまったほどだ。

 その日は、とある編集部と打ち合わせ方々お昼を食べるという予定が入り(というか、お昼を食べるほうがメインだったりするのだが)、自宅から新宿まで小田急線の普通に乗って出かけた。本当は急行に乗ったほうがずっと速いのだが、混んだ電車は疲れる上に人の観察がとてもやりにくい。という訳で、私はいつもゆっくり時間をかけて普通電車で新宿に出るようにしている。時々眠ってしまって新宿から折り返し、いつの間にやら下北沢だったということもあるが、大抵は1時間弱で到着する。

 彼がその電車に乗りこんだのは、確か千歳船橋あたりだったかと思う。隣の車両に乗り、そこからゆっくりとこちらに向かってきた。携帯電話を耳にあて、大声でなにかしゃべっている。隣の車両まで聞こえてくるのだから、相当大きな声だったのだろう。私は何気なく彼を観察した。彼は、まんまゲンダイの若者といった風情。長い髪を後ろで束ね、真っ白なシャツをジーンズの上からはおっている。一見して不潔感はなく、こざっぱりとした好青年。ルックスはかなり上で、さぞかしおモテになるのだろうなあとおばさんはこっそりヤラシイ推測していた。あの携帯電話の相手はきっと彼女で、彼はきっとデートの時間に遅れそうになって懸命に弁解しているに違いない。私は自分の若い頃にこのシーンを重ね、ふっと微笑を浮かべながら当時の恋人を思い出したりしていた。しかし、次の瞬間。

 彼は私の車両にやってきた。手には相変わらず携帯電話。大声でしゃべり続けている。そこまではよかったのだが、話の内容が想像とは大きく違っていた。というか、こんなの予想できる訳がない。彼は、彼は、ああ、なんということでしょう…
「もしもしドラえもん、もしもしドラえもん、聞こえますか?」
 ドラえもんに電話をかけていたのだ!
 はっ、と顔をあげた。おもしろいもので、同じ車両の人たちも一瞬私と同じ動きをしていた。やっぱりみんな彼の声が気になっていたのだろう。一様に唖然とした表情を浮かべている。
 彼は、そんな視線の中、次の言葉を続けた。
「助けてください、ドラえもん。ポケットの中からなにか出して、僕を助けてください。電車の中でサリンがまかれてしまうんです。ダイオキシンがあちこちに広がっているんです。北極の氷が溶けて、東京は海の底に沈んでしまうんです。助けてください、ドラえもん」

 もう一度車両の中の人たちを見ると、みんな何事もなかったかのようにそれまでと同じ顔に戻り、会話を続けたり本を読んだりしている。もう誰も、唖然として彼を見たりはしない。私ひとりが、相変わらず彼を注目し続けていた。なんでみんな知らん顔できるんだろう。こんなすごい事件、そう滅多に見られないのに。

 彼は、そのまま相変わらずの大声で後を続ける。
「聞こえますか、神様。お願いです、僕を助けてください。このままでは人間はみんな滅びてしまうんです。サリンがまかれて死んでしまうんです。助けてください、クリーミーマミ。変身して僕を助けてください…」
 なんだ、やられた。ここまできて、私はそう確信した。これってあれじゃん、テレビ番組のやらせのやつ。変なことやってびっくりした一般人の反応を撮影し、笑うってやつ。ちぇ、本気でびっくりしてしまったぜ。だってだって、こともあろうに「クリーミーマミ」だよ? こんなせりふ、シナリオライターが作りこんだに間違いないじゃん。素人が思いつく言葉じゃないし。 にこにことテレビ用の笑顔を作りながら、どこかで撮影してるだろうテレビカメラをこっそり探してみた。しかし、そんなものはどこにもなかった。さらに、彼は続ける。
「聞こえますか、オウムの人たち。どうか僕を助けてください。サリンをまいて、助けてください」
 おいおい、話があやしくなってきたぞ。さっきは「サリンがまかれて死んでしまう」っていってたのに、今度は「サリンをまいて助けてください」といっている。わたしは頭の中を疑問符だらけにしたまま、とりあえずHP100LXを取り出して彼のせりふを書きとめておくことにした。どういう結末になるのかはわからないけど、これはかなりおもしろい。
 と、彼は携帯電話を胸ポケットにしまった。どうやら電話は終わったらしい。っていうか、どこにかけてたのアナタ、と聞きたい気持ちでいっぱいの私。
 彼は、さっきより若干小さ目の声で、車両内のみなさんに演説を始める。
「みなさん聞いてください。東京はもう終わりなんですよ。ダイオキシンは蔓延してるし、北極の氷が溶けて、東京は海水の底に沈むんです。みんな死んでしまうんですよ。わかっているんですか、みなさん」
 そのみなさんは、相変わらずおしゃべりを続けたり本を読んだり、全然動じる気配がない。彼が一所懸命演説を繰り返しても、その状態は変わらなかった。聞こえていないはずはないが、ヤツラは一切を無視することに決めたらしい。一心不乱に彼のせりふを記録している私を除いて、すでに彼に興味をもつ人はいないように見えた。

 彼はあきらめたように、次の駅で静かに降りていった。彼がホームに降りて、ドアがしまる。途端、車内には緊張が解けたような雰囲気が流れた。私の隣の男性が、その隣の男性に話しかける。
「なんだったんでしょうかね、彼は」
「ええ、見た感じはきちんとしていたし、おかしいっていう訳じゃなさそうだったけど」
 うん、かっこよかった。ってのは、わたしの心の声。
「なんかのイベントですかね」
「罰ゲームだったのかも」
 なるほど。そういう考え方も確かにある。
「あれじゃないでしょうか。ほら、今は季節も春だから」
「あれって?」
「最近多いんですよ、電波系の方々が」
「電波系って…ああ、なんか電波に操作される人たちね。春先に」
「そうそう。僕が聞いた限りでは、豪徳寺あたりに多いって話だったけど…」
「なるほど…電波なのね、原因は」

 電車は新宿のホームに滑り込んだ。ドアが開き、乗客たちは何事もなかった顔で次々と降りていく。隣に座っていた男性二人も、席をたってゆっくりと降りていった。
 座席に残されたのは私ひとり。LXを手に途方に暮れていた。最後の最後に、こんな大きな謎を残されたんだからたまらない。ねえねえ、電波系ってなんのこと? まさかなすびのことじゃないよね…。


*1:クイックサンドは騒人の前身です。
*2:この作品は、1999年8月「真花のショートノベル&コラム No.3」に掲載されたものです(転載許可済)。

二人暮らし(1)

 以前「クイックサンド」(*1)というオンラインマガジンで、「電車に棲む人々」という連載を書いていたことがある(*2)。これは、電車の中で見かけたさまざまなキャラクターを描くという企画だった。何回か続けたらネタは簡単に尽きてしまうだろうと思いきや、東京の電車の中には実にいろんな人が乗っていて、書いても書いても書き足りない。ということで、今回このメルマガで続きを書いてみようと思った。最近は特に、世紀末という時代的要素も手伝ってか不思議な方々と出会う確率が高く、モノ書きとしては嬉しい限りである。

 中でも、この前の体験は刺激的だった。思わずかばんの中からHP100LX(私の最愛のPC。手のひらサイズながら、軽快にDOSが動く。実質的には私のメインマシンであるといっても過言ではない…LXについてのコラムは、また後日)を取りだし、記録に走ってしまったほどだ。

 その日は、とある編集部と打ち合わせ方々お昼を食べるという予定が入り(というか、お昼を食べるほうがメインだったりするのだが)、自宅から新宿まで小田急線の普通に乗って出かけた。本当は急行に乗ったほうがずっと速いのだが、混んだ電車は疲れる上に人の観察がとてもやりにくい。という訳で、私はいつもゆっくり時間をかけて普通電車で新宿に出るようにしている。時々眠ってしまって新宿から折り返し、いつの間にやら下北沢だったということもあるが、大抵は1時間弱で到着する。

 彼がその電車に乗りこんだのは、確か千歳船橋あたりだったかと思う。隣の車両に乗り、そこからゆっくりとこちらに向かってきた。携帯電話を耳にあて、大声でなにかしゃべっている。隣の車両まで聞こえてくるのだから、相当大きな声だったのだろう。私は何気なく彼を観察した。彼は、まんまゲンダイの若者といった風情。長い髪を後ろで束ね、真っ白なシャツをジーンズの上からはおっている。一見して不潔感はなく、こざっぱりとした好青年。ルックスはかなり上で、さぞかしおモテになるのだろうなあとおばさんはこっそりヤラシイ推測していた。あの携帯電話の相手はきっと彼女で、彼はきっとデートの時間に遅れそうになって懸命に弁解しているに違いない。私は自分の若い頃にこのシーンを重ね、ふっと微笑を浮かべながら当時の恋人を思い出したりしていた。しかし、次の瞬間。

 彼は私の車両にやってきた。手には相変わらず携帯電話。大声でしゃべり続けている。そこまではよかったのだが、話の内容が想像とは大きく違っていた。というか、こんなの予想できる訳がない。彼は、彼は、ああ、なんということでしょう…
「もしもしドラえもん、もしもしドラえもん、聞こえますか?」
 ドラえもんに電話をかけていたのだ!
 はっ、と顔をあげた。おもしろいもので、同じ車両の人たちも一瞬私と同じ動きをしていた。やっぱりみんな彼の声が気になっていたのだろう。一様に唖然とした表情を浮かべている。
 彼は、そんな視線の中、次の言葉を続けた。
「助けてください、ドラえもん。ポケットの中からなにか出して、僕を助けてください。電車の中でサリンがまかれてしまうんです。ダイオキシンがあちこちに広がっているんです。北極の氷が溶けて、東京は海の底に沈んでしまうんです。助けてください、ドラえもん」

 もう一度車両の中の人たちを見ると、みんな何事もなかったかのようにそれまでと同じ顔に戻り、会話を続けたり本を読んだりしている。もう誰も、唖然として彼を見たりはしない。私ひとりが、相変わらず彼を注目し続けていた。なんでみんな知らん顔できるんだろう。こんなすごい事件、そう滅多に見られないのに。

 彼は、そのまま相変わらずの大声で後を続ける。
「聞こえますか、神様。お願いです、僕を助けてください。このままでは人間はみんな滅びてしまうんです。サリンがまかれて死んでしまうんです。助けてください、クリーミーマミ。変身して僕を助けてください…」
 なんだ、やられた。ここまできて、私はそう確信した。これってあれじゃん、テレビ番組のやらせのやつ。変なことやってびっくりした一般人の反応を撮影し、笑うってやつ。ちぇ、本気でびっくりしてしまったぜ。だってだって、こともあろうに「クリーミーマミ」だよ? こんなせりふ、シナリオライターが作りこんだに間違いないじゃん。素人が思いつく言葉じゃないし。 にこにことテレビ用の笑顔を作りながら、どこかで撮影してるだろうテレビカメラをこっそり探してみた。しかし、そんなものはどこにもなかった。さらに、彼は続ける。
「聞こえますか、オウムの人たち。どうか僕を助けてください。サリンをまいて、助けてください」
 おいおい、話があやしくなってきたぞ。さっきは「サリンがまかれて死んでしまう」っていってたのに、今度は「サリンをまいて助けてください」といっている。わたしは頭の中を疑問符だらけにしたまま、とりあえずHP100LXを取り出して彼のせりふを書きとめておくことにした。どういう結末になるのかはわからないけど、これはかなりおもしろい。
 と、彼は携帯電話を胸ポケットにしまった。どうやら電話は終わったらしい。っていうか、どこにかけてたのアナタ、と聞きたい気持ちでいっぱいの私。
 彼は、さっきより若干小さ目の声で、車両内のみなさんに演説を始める。
「みなさん聞いてください。東京はもう終わりなんですよ。ダイオキシンは蔓延してるし、北極の氷が溶けて、東京は海水の底に沈むんです。みんな死んでしまうんですよ。わかっているんですか、みなさん」
 そのみなさんは、相変わらずおしゃべりを続けたり本を読んだり、全然動じる気配がない。彼が一所懸命演説を繰り返しても、その状態は変わらなかった。聞こえていないはずはないが、ヤツラは一切を無視することに決めたらしい。一心不乱に彼のせりふを記録している私を除いて、すでに彼に興味をもつ人はいないように見えた。

 彼はあきらめたように、次の駅で静かに降りていった。彼がホームに降りて、ドアがしまる。途端、車内には緊張が解けたような雰囲気が流れた。私の隣の男性が、その隣の男性に話しかける。
「なんだったんでしょうかね、彼は」
「ええ、見た感じはきちんとしていたし、おかしいっていう訳じゃなさそうだったけど」
 うん、かっこよかった。ってのは、わたしの心の声。
「なんかのイベントですかね」
「罰ゲームだったのかも」
 なるほど。そういう考え方も確かにある。
「あれじゃないでしょうか。ほら、今は季節も春だから」
「あれって?」
「最近多いんですよ、電波系の方々が」
「電波系って…ああ、なんか電波に操作される人たちね。春先に」
「そうそう。僕が聞いた限りでは、豪徳寺あたりに多いって話だったけど…」
「なるほど…電波なのね、原因は」

 電車は新宿のホームに滑り込んだ。ドアが開き、乗客たちは何事もなかった顔で次々と降りていく。隣に座っていた男性二人も、席をたってゆっくりと降りていった。
 座席に残されたのは私ひとり。LXを手に途方に暮れていた。最後の最後に、こんな大きな謎を残されたんだからたまらない。ねえねえ、電波系ってなんのこと? まさかなすびのことじゃないよね…。


*1:クイックサンドは騒人の前身です。
*2:この作品は、1999年8月「真花のショートノベル&コラム No.3」に掲載されたものです(転載許可済)。

二人暮らし(2)

●木魂の棲む部屋

 編集という仕事上、帰宅はどうしても夜中になる。毎晩ひとりでコンビニ弁当を食べていた息子がついに音を上げ、「たまにはお母さんの手作りご飯が食べたいなあ…」と愚痴るようになった。私はすっかり丸くなってしまった彼の顔をつくづく眺め、これ以上彼にコンビニ弁当を与えるのは危険であると判断し、退社を決意した。収入はかなり減るけれど、これからはまたフリーライターとしてやっていくつもりだ。なあに、親子二人質素に暮らせばどうにかなるさ。いざとなれば、隣の豆腐屋から「おから」をもらって三食いただけばいい。そうすれば息子の顔に無数に浮かぶニキビだって、きれいに治るに違いない。
 という訳で、これからは自宅で仕事をすることになった。いわゆる「SOHO」というやつ。しかし、それにはちょっとした準備期間が必要だ。というのも、これまで会社に逃避しつつ見て見ぬふりしてきた家の中が、全くもって耐え難い状態だったからだ。一例をあげよう。玄関わきの洗濯機コーナーには、息子の上靴が真っ黒なまま、すでに数週間放置されていた。お風呂の排水溝には抜けた髪の毛がつまり、水が流れなくなっていた。食卓の上には新聞と雑誌、学校のプリントが山積みされ、わずかに残ったスペースで食事をとるといった状態。これからずっとこの家の中で過ごすとなれば、もうこの状況に目をつぶる訳にはいかない。一念発起、ここは覚悟を決めて模様替えを兼ねた大掃除をしようと決めた。

 話は変わるが、わたしの母親はちょっとしたスーパーウーマンである。私を育てるかたわら、常に仕事をしていた。40を過ぎた頃から書道を始めて教室をもつまでに腕をあげ、一番ハードな時期は一週間のうちに4〜5日間自宅で書道教室を開いていた。朝から晩まで書道を教え、夜はお手本を書いたり自分の作品を仕上げたりで徹夜することもよくあった。そんな状況ながら、家の中が乱れたことが一度もなかった。いつもきちんと片付けてあり、ちりひとつ落ちていない。トイレやお風呂、台所などの水回りも完璧で、ステンレスはいつもピカピカに磨きあげられていた。また、昔堅気の父が外食や出来合いのお惣菜を嫌がるため、食事はいつも彼女の手料理だった。これがまた美味い! 決して身びいきでいっているのではなく、彼女の手料理を食べた人はみなその味を絶賛した。中には、料理を目当てにしょっちゅう遊びにくる人もいたほどである。
 こんな母親を持つと、子供は苦労する。子供にとって親とは一番身近なお手本であり、標準(スタンダード)である。つまり、私的には「仕事をしていても家の中はいつもきちんと整っていて、食事はいつも手料理かつ美味しくなくてはならない」というのが「可」と評価され、それ以下は「不可」として認識されてしまうのだ。これは苦しい。だって、どうがんばって「不可」なんだもん。という訳で、私は日々自己嫌悪に苛まれ続けている。ギブアップする気はないが、いつの日か私が「可」になれる日がくるような気もしない。

 話を戻そう。さて、覚悟を決めた私は、一日予定を空けて完璧に家の中を片付けることにした。ゴミ袋を2セット用意し、いらないものはどんどん捨てる。部屋の家具を動かして、隅の埃も全部掃除機で吸い上げる。水回りは磨く。ついでに衣替えも済ませ、必要なものはクリーニングに出す。あちらこちらに散らばっていたものは全部一箇所に集め、100円ショップで買ってきたプラスティックのカゴに分類して収納する。以上全て完了した頃には、すっかり日が暮れていた。
 最後に、きれいになったお風呂につかって自分についた垢を落とす。一番幸せな瞬間である。お風呂から出たらビールでも飲むか…と、しみじみ至福を味わっているその瞬間。「おかあさん、ただいま〜」
 息子が学校から帰ってきた。瞬間、悪寒が走った。彼にはホントにホントに申し訳ないけれど、この時わたしには真実息子を「バイキンマン」として認識したらしい。咄嗟に出た言葉が、「靴下は玄関で脱いで!できるだけ周りに触らず、自分の部屋に行って!」だった。息子はかなりムッとしたらしく、「別に今日特別汚れるようなことはしてないけど…」と反論する。「ん〜それは知ってるけど…。今日実は大掃除したのよね。だから、できるだけ汚したくない…」「汚したくないってあんた、別に俺バイキンの塊じゃないんだし…」。不満そうながら、息子はしぶしぶ靴下を脱いで洗濯カゴに入れた。

 しかし、至福の時は一晩で終わった。翌朝、息子は困り果てた声で部屋から出てきた。
「おかあさん、なんか滅茶苦茶かゆいんだけど…」
 彼の顔を見ると、米粒大の湿疹があちこちにできていた。虫にでも刺されたかと思ったが、季節は冬。蚊なんて飛んでいる訳がない。Tシャツをめくってみると、顔以上に赤いブツブツが広がっている。
「なにこれ…? ジンマシン? なにか悪いものでも食べた?」
「別になにも…。おかあさんだって同じもの食べてるし、食べ物じゃないと思うよ」
「じゃあ何だろう? アレルギー? …とにかくカユそうね。薬塗らなくちゃ」
 この家では、なにかというとオロナイン軟膏かマキロンが登場する。とりあえず赤いブツブツの上にまんべんなくオロナインを塗った。しばらく様子を見たが、一向にブツブツが消える気配はない。しょうがないので学校をお休みさせ、薬局に行って薬をもらうことにした。
 薬局のおねえさんは、息子をひと目見て「アレルギー性のジンマシンですね。これを塗ってください」とショーケースの中から一本の軟膏を取り出した。
「今日は一日、家で安静にしてください」
「はい…。ところで原因はなんでしょうか? 食べ物ですか?」
「食べ物にアレルギーがあるのであればそうでしょうが…正式に診察して調べてみないとなんともいえません。それより、ホコリかダニのアレルギーである可能性が高いと思います」
 少なからずショックを受けた。数日前までなら納得するが、今の私の家はどこもかしこもピカピカなのだ。それがなぜ、今になってホコリやらアレルギーやらに攻めてこられなくちゃいけないのだ。
「どうもありがとうございました。お大事に〜」
 おねえさんの声に見送られ、わたしと息子は家路についた。それにしても、ダニやホコリが原因だとしたら、家の中でじっとしていろというのはちょっと矛盾している。いわば、病原菌の中に飛び込むようなもの。

「とにかく一番きれいな部屋に布団敷いてあげるから、そこで寝てなさい」
 私は息子を居間に座らせ、息子の部屋に彼の布団を取りに行った。
「…!!!!!!!」
 息子の部屋に入った私は、一瞬言葉を失った。頭の中は真っ白になり、咄嗟にわたしは部屋の扉を閉めた。原始レベルの恐怖が、私の理性を占領していた。
「どうしたの?」
 無邪気な息子の顔。わたしは彼の顔をまじまじ見つめてしまった。言葉をまとめて説明するには、しばらく時間が必要だった。
「あ…あの部屋。ちょっと何、あれ。どうやってあの部屋に入ればいいの?」
「ん? 普通に扉を開けて…」
「は、入れないってば。絶対無理。だってだって…!!」
 だってそこにはジャングルが広がっていたのだ。うっそうとした森の中、切り株の上に木魂が座ってカラカラと首を回していたのだ。木の葉の隙間から一筋差し込む太陽の光は、薄モヤの中に浮かぶ不思議な怪物たちをシルエットにして浮き上がらせていた。
「あんたの部屋、いつからあんな状態な訳?」
「へ? …ずっと前からあんなんだけど…。普通だったでしょ? どっか変?」
 深く息を吸った。とにかく酸素は重要だ。もう一度だけ、部屋の中を確かめてみよう。私は意を決して、えいやっと扉を開けた。今度は覚悟の上なので、前よりしっかりと部屋の中が観察できる。果たしてそこにジャングルはなく、代わりに足の踏み場もないほど散らかった男の子の部屋が姿をあらわした。遮光カーテンは閉め切られていたが、隙間から太陽の光が射しこんでいる。薄モヤのように見えたのは、扉を開けたことで空気が流れ込み、ふわっと舞い上がった埃であったということも確認できた。そのとたん、私の勇気は急速に萎えた。
「おかあさん…? だいじょうぶ? 自分で布団とってこようか?」
 息子がわたしを心配そうに見る。彼はこの部屋、なんとも思っていないらしい。
「布団? 布団ってどこにあるの?」
「部屋の真ん中に敷きっぱなしになってるでしょ」
 部屋の真ん中といえば、さっき木魂が切り株の上に座っていたところだ。目をこすってじっと見てみると、確かにそこには布団があった。切り株に見えたのは彼の枕らしく、その上には誰もいない。恐怖が見せた、目の錯覚だったか…。ともかく、ヤツをこの布団で寝かせるわけにはいかない。いかにもダニが住んでいそうな布団に。
「ダメダメ。この布団で寝たら、もっとかゆくなっちゃう。いいから君は、私の布団で寝てなさい。布団は全部洗濯します」「わかった。じゃ、パジャマを取って」
 パジャマ? …ぐるっと部屋を見回すと、部屋の隅にグレーのジャージが一式落ちていた。まだ部屋の中に足を踏み入れる勇気のない私は、30センチの定規を使って器用にジャージをつまみあげる。そーっとジャージを引き寄せ、そのまま彼に手渡そうとした。
「あ、それそれ。ありがと…それにしても、なんで定規で取るん」
 むっとする息子。ジャージを広げると、中から丸めたティッシュが落ちてきた。なぜか赤く染まっている。
「昨日の夜、鼻血が出たんだ」
 速攻でジャージを彼から取り上げる。代わりに私のジャージを彼に与え、それを着るように命じた。
「あんたの部屋を掃除してくる」
 決然と言いはなつ。勢いで彼の部屋に入り、カーテンと窓を盛大に開けた。うっそうとしたジャングルは、真実の姿に戻った。そこには、埃だらけのコミックの山と、鼻血で汚れた布団と、衣装ケースからなだれ落ちた服の吹き溜まりと、遊戯王&ポケモンカードがはみだしたダンボール箱と、各種ゲーム端末が散らばっていた。
 再び、大掃除である。私はほとんど竜王に立ち向かう勇者のような心持ちで、ダスキンとごみ袋と掃除機を持って息子の部屋に挑んだ。時折隣の部屋から、テレビを見て笑っているらしい息子の明るい声が聞こえてくる。悔しくて、切なくて、悲しくて、泣きたくなる。なんだってあいつはこんな部屋で平気で暮らしていられたんだろうとか、大体ヤツは昔からこうだったとか、しょうもない繰言が頭の中でグルグル回る。そういえばヤツは、ええ年こいて「魔法陣グルグル」なんていうコミックまで買っているのだ。だからこんな訳わからない部屋になっちゃうんだ。だから木魂まで首回しちゃうんだ。だからジンマシンできちゃうんだ…。
 部屋を片付け、埃を取り、布団を干し、シーツ類をまとめて洗濯機につっこむ。その間、何度となく意識を失いかける。しかし、どんな部屋でも半日かければどうにか片付くものらしい。夕方には、人が暮らせるだけの環境が整った。
 最後の仕上げに引出しからあふれている服をたたんでしまおうと、グレーのトレーナーに手をかけた瞬間。
「!」
 それはグレーのトレーナーなんかじゃなかった。卒業式に着たという、真っ白なセーターの末路。あまりの変わり様に、わたしは言葉を失った。全身鳥肌が立つ。
「…ふ、ダメだ。これを見逃すわけにはいかない…」
 わたしは、旅行用の大きなカバンを3つ準備した。こうなったら、最後までやるっきゃない。引き出しに入っていた服、下着、セーター、シャツなどすべて取り出し、それをカバンに詰め込んだ。
「ちょっと手伝って」
 テレビを見て笑っている息子は、「え、僕今日は安静なんでしょ」と他人顔。
「いいから、こっち手伝いなさい。あんたのジンマシンのなぞはすべて解けたんだから」 母親の尋常でない様子におじけづき、彼は素直に渡されたカバンを持った。
「これからあんたの服をぜ〜んぶ洗います。といっても干す場所ないので、これからコインランドリーにこれをもっていきます。手伝いなさい」
 さすが男の子で、四季全部の服を合わせても旅行カバン3つ分程度しかない。それを二人でよいしょよいしょと運び、駅前のコインランドリーの洗濯機を全部占領して一気に洗濯した。金額にして2百円×6台分。その後、乾燥機を全部占領して全部の洗濯物を一気に乾かした。こちらは3百円×6台分。しめて三千円の出費だ。痛いといえばそうとう痛いが、これで彼の部屋がまっとうになるなら安いもんだ。
 乾燥機が止まると、親子はほかほかに温まった服をカバンを持ち、夕焼けを背に家路についた。
「はあ…つかれた。昨日から私、こんなんばっかり」
「大変だったでしょ。俺の部屋きれいにするのなんて人間には不可能だし」
 息子はあっけらかんと笑う。
「そういえば、あんたの部屋"木魂"がいたよ」
「あ、そうそう。あいついるんだよね。なんか気に入ってるみたい。昔、トトロもいたんだけどね。ここんとこちょっと部屋がきれいになってきたから、出てこなくなっちゃったな」
 ダメだ。説教しようかと思ったけれど、あきらめた。大体今の私に、そんなパワーなんか残っちゃいない。あったとしても、それがヤツに通用するかどうかは別問題である。
「これ全部たたんで引き出しにしまうの、手伝ってよね」
「えー面倒くさい。その辺にほかっておけばいいよー」
「それはダメ。またすぐにこうやって全部洗わなくちゃいけなくなる。こんな思い、もう二度としたくない!」
 知ってか知らずか、息子は話題を変える。話をはぐらかすのは、ヤツの得意技だ。
「ところでさ、俺のジンマシン治ってよかったよね。でもなんでジンマシンなんか出たんだろうね」
 どこまでもトボケたヤツである。


◆あとがき
 今回は「とってもかゆい話」です。お食事中の方は、ごらんにならないことをおすすめします。それにしても、男の子を育てているといろんな目に遭います。最近彼はちょっぴり「アダルティ」な方面に興味津々なようで…。

チャットH★潜入レポート

 このところ、なぜかチャットに関する記事の依頼が多い。はやってるんだろうか。AOLのIM(インスタントメッセージ)もあちらこちらに類似品が出まわる始末だし、よっぽどみんなネット・コミュニケーションしたいらしい。会社で電子メールを出し、通勤途中にピッチでショートメッセージごっこし、テレホーダイタイムにはチャットとIMでおしゃべりにふける…。もう現代人には「さびしくて泣きたい夜」なんて、すっかり無関係になってしまっているのかもしれない。

 チャット記事の資料集めにいろんなサイトを眺めていると、妙に「ツーショット」という言葉が目につく。「これなんだろ」とブツブツいってると、うちの事務所で最年少のタケハル青年がひょいと画面をのぞきこんだ。「あ、それ知らないんすか。だめっすよ。今はやってるっすソレ。いわゆるネットナンパってやつで」。タケハル青年、なぜかうれしげに隣に座る。
 「えっ。あんたこれ知ってるの」「とーぜんっすよ。っていうか、俺のともだちなんか今それっきゃやってないもん、ネットで。すごいんだって、ホント。ざくざく女が釣れるらしいっす。もう、街で女の子に声かけまくるなんて、アホらしくってやってらんねーって感じ」「ふぅーん。ここってそーゆうとこなのか…。んでどうよ、あんたもやったことあんの?」「俺? …ちょっとだけやってみたけど、あんまおもしろくないんですぐやめちゃったっす。なんかコレ、簡単すぎるんだよなあ…」

 ウソだ。こいつ相当ハマってる。私はそう直感した。だって、声のハリが違うもの。好きな話題になるといきなり張り切るヤツっているけど、タケハル青年はモロそういうタイプ。つまんない話題になると、さっさとどっかいっちゃうし。それにこいつは、必ず自分の恥ずかしい経験についてしゃべる時「友だちでこーゆうヤツがいて…」と他人の経験ってことにしちゃうんだよな。この場合も絶対そうだ、と私は確信していた。

 「ところでさ、これちょっとやってみたいんだけど…」
 私がいうと、タケハル青年思いっきりびっくりした顔をする。
 「なによ。私が参加したらなんかマズいことでもあるわけ?」「いや、んなことないけど…でもな…なんかかわいそーだよな」「え?私が?」「いや、相手が」
 コツン。軽くけっとばす。
 「だってさー、それってまるでサギじゃないすかー。男はみんな俺くらいの年なんだから。チャットに参加してる女の子って、みんな10代とか20代とかっすよ」「げっ。そんな若いの?」「とーぜんっすよー。そうでなきゃ、立つモンも立たないじゃないっすか」「で、どのくらいまでOKな訳?タケハルくん的には」「…うーん。譲って20代後半までかな。そんなね、ミカさん30代後半はヤバいっすよ。よくないっすよ。サギっすよ」
 ドーン。思いっきり足を踏む。ぎゃーっというヤツの悲鳴をよそに、私はさっさとチャットルームにログインした。ネットの世界にまで年齢制限持ち込まれたんじゃたまんない。
 そこは、ツーショットチャットに持ち込む前の待合わせ場所として使われているようだった。つまり、ホテルにいく前のネルトン場。ここで何人かの人とおしゃべりして、気があえば二人っきりでお話しましょ、という流れ。私がログインした時は、すでに4人のメンバーがチャットに興じていた。内訳は、男3人に女1人。わたしが入って紅一点が二点になる。しばらくだまってログを眺めていることにした。まずは、この場の雰囲気というものを把握しなくては。

なお:えー。どうしよっかなー。
たか:いいじゃん。教えてよ。どうせ見える訳じゃないんだし。
ひろ:なおちゃんって年いくつ?
なお:えっとね、85のDカップ。
ひろ:学生さんかな?
たか:いいねー。大きいおっぱいって好きだな。
なお:16です>ひろ

 どうやら年とかサイズとかの話をしているらしい。女の子が一人だから、ハイエナのごとく全員でたかっているらしい。それにしても16…。やっぱり私が参加するなんて、ずうずうしかったか。

たく:こんにちは>みか

 なんて思っていると、いきなり声をかけられた。「あれ…私まだ何もしゃべってないのに」「しゃべらなくても、ほらここに名前が出てるっしょ。ログインした時点で、こうやって表示されちゃうんっすよ」。いつの間にやら隣に立って画面を見ているタケハル青年。さすが経験豊富らしく、テキパキと指示をする。「ほら、声かけられたら返事するのが礼儀だから…」。私がオロオロしていると、ついに我慢できなくなったのかキーボードを奪い取ってレスを書く。

みか:どうもこんにちはー(^^)>たく

「ちょっと顔文字つけないでよ。私のキャラクターが…」「キャラクターなんてどうでもいいっす。ここではみんなに好かれないと、意味ないっすから。かわいくしとかないと…」。そうでなくても年いっちゃってるんだし、というタケハル青年の心の声が聞こえた。悔しいけど、ここは経験豊富な先輩に任せとくとしよう。

たく:よろしく>みか。ところで、年いくつ?

 げっ。いきなり痛いところをついてきやがる。タケハル青年と私は、お互いの顔を見つめあった。やがて彼が決意したように、キーボードを叩き出す。

みか:16でーす!>たく

 だーっ! じ、じゅうろくぅ〜? 
「ちょ、ちょっとなにこれ!サギじゃん。ダメよダメ。いくらなんでも、20以上サバよむってのは犯罪よぉ!」「いーんですって!どうせ相手にわかりゃしないんだし。それに、まさかホントの年を書くとかいわないですよねぇミカさん。だめっすよ、そんなかわいそーなことしちゃあ。ここにいる3人、全員萎えちゃうよぉ」
 今度はさすがに逆らう気力もない。実際、「なお」ちゃんの16才宣言はショックだった。ホントの年書いた日にゃあ、みんないっせいに黙り込んでしまいそうだ。「もーあんたに任せた」。わたしはタケハル青年にすっかり席を譲り渡し、隣の席で高見の見物を決め込んだ。

たく:若いね。ぼくは20才。ちょっとおにいさんだ。
たか:こんにちは>みか
ひろ:どーも>みか
なお:はじめまして>みか

 うーん。16と書いた途端に男が群がる。いきなり不愉快な気分に陥ってしまう私。妙な自己否定感、コンプレックスを味わされている気分。どーせどーせ、みんな若い子が好きなのさっ。
 タケハル青年、こうやって私がいじけてる間も軽々とキーを打ち続けている。ふふふ、と時々無気味な笑いを浮かべながら。
 「調子はどう」「こいつらホントバカっすよミカさん。もうやりたい気持ちがミエミエ。みんなで俺を取り合ってるよ。笑えるなー、俺男なのにね」そんなこと、相手にわかるはずもなし。画面を見てみると、彼がいった通り「みか」の取り合いになっている。さっきの「なお」ちゃんはといえば、時々発言するけれどあまり相手にされていない様子。

 「ねえ、なんでこんな一人占め状態な訳?」。なぜかタケハル青年、鼻をふくらませて自慢顔。「あったりまえっすよー。だって俺男だもん。奴等がどうしたいとか、何が聞きたいとか、全部わかっちゃうだからこれはモテますよ。もうなに?アレ?みんなのアイドルってやつ?」うけけっと笑うタケハル青年。なるほどと納得しつつ、それってルール違反よねってな気がしなくもない。…それにしても、これじゃ「なお」ちゃんがかわいそうすぎる。なんたってお姫様状態だったのが一変、今や人気を新人に取られてしまった元アイドル状態。さぞ気落ちされてることであろう…。
 
 「おっ」「なに?」「なるほどそうきたかー」…。
 うーむと腕組みして考え込む彼の横から画面を覗きこむと、そこには驚くべき台詞が羅列されていた。

なお:ああん…だめぇそこは…
ひろ:じゃあ、ブラはずしちゃうよ
なお:いやあん、なお恥ずかしい…
 
 「ど、どうなっちゃったのー!」。私はタケハル青年の肩をつかんで揺さぶった。画面の中では、延々アダルトビデオ並の過激な言葉が連ねられている。
 「やられちゃいましたよ。あいつ、ついに本番に持ち込むことで人気を復活させようとしてる。きたねーなあ」。タケハル青年、真剣な目で画面の文字を追っている。「本番って…ね、どーゆうこと。これってネットでしゃべってるだけなんでしょ。なんで本番ができるのよ」「…ん、なんてんでしょーね。俺らはチャットHとかいってるけど。ほら、テレフォンセックスとかあるでしょ。あれをチャットでするの。ホントはツーショット部屋にいって、二人きりでやるパターンが普通なんですけどね…」
 ぼーぜんと画面をながめる二人。「なお」ちゃんは、観客の目を意識してかどんどん台詞がエスカレートしていく。さっきまで「みか」を口説いてた男たちも、口数少なくなっていた。みんな、彼女のあえぎ声にじっと耳をすませているようだ。
 
 「すご…い。この子、ホントに16?」。信じられないほど真に迫った演技。実体験なしじゃ、とてもここまで表現できるもんじゃない。「どうだろ…ウソなんていくらでもつけるしね」。タケハル青年、モジモジしながら上の空で返事をする。「もしかしたら30代後半のオバハンかもしれない」。オバハンといったなオバハンと。もう一度思いっきりヤツの足を踏みつけるが、「なお」ちゃんの熱演に夢中になっている彼は、さっぱり気付いていない様子だ。「それにしてもスゲーな。こいつ、本気でヨガってるんじゃねーの」。
 ホントにすごい。そのすごさといったら、これだけチャット慣れしてるヤツがすっかり無口になってしまうほど。ここに私がいなかったら、彼はとっくの昔にティッシュペーパーを取りに走ってたかもしれない。彼女は、官能小説家顔負けの表現力で、男たちのリビドーを完全に支配していた。
 
 「ヤベっ。ひろっていうヤツ、もういっちまいやがる。なおちゃんがまだあえいでいるってのに…」。画面の中では、まさに「ひろ」が彼自身の欲望を存分にぶちまけている最中だった。そのあとを追いかけるように、「なお」ちゃんもエクスタシーの頂点を極めようとしている。

なお:ああああああああああああーーーーー!!

 「…あれ」
 「なに?」
 「なんでこうなる訳?」
 「なんでって…どこが?」
  だって、どう考えたっておかしい。だってだって、「ひろ」も「なお」もたった今イっちゃったんでしょ?

 「イク時ってさー…。キーボードなんて打てないよね」「…へ?」「だってほら、両者共、ぼーっと画面見てるだけでイッちゃった訳じゃないでしょ。双方とも一人でなんかしてたと考えるのが自然じゃない?」「…なんか?…あ、そっかー」「でしょー。ってことは、どちらも大忙しな訳で、キーボードなんて打たないよね」
 さて問題。彼らはどうやって頂点を迎えたのでしょう。
 
 「そーゆうこと考えるの、やめよーよミカさん」。やるせなさそうに、タケハル青年は首をふった。「だって、俺らこういうの見てマジで気持ちよくなったりしてるだしさー。なおって子だって、きっと一人の部屋で乱れに乱れてやってくれてるんだと信じてるんだよぉ。だってそうじゃなきゃこれって…」「アダルトビデオのあえぎ声と同じ。本気じゃなく、サービスでやってるってことよね」「…う、うそぉ」
 
 タケハル青年、肩を落としていきなりログオフする。よっぽどショックだったのか、「もうオレ二度とチャットHしない…」とかつぶやいてる。私はといえば、「あのなおって子、16じゃないよ絶対。あれは40代後半のオバハンのイキ方やね」と、青年に追いうちをかけて喜んでいた。

ハイテクな恋人

 今、テグレットの「美穂の旅」というサービスにハマっている。それって何? という人、悪いことはいわない。一度体験してみてください。遊び方その他は、「美穂の旅」公式ホームページ(http://travel.teglet.co.jp/)に詳しく解説してあるので、どうぞご参照あれ。
 …なんて、それだけで終わってもしょうがないので、ちょっとだけここで説明しておこう。「美穂の旅」とは、「株式会社テグレット技術開発」が提供する仮想旅行システムである。この会社、実はLXユーザと深〜い関係がある。LXで使える唯一の辞書が、テグレットの「光の辞典」であった。シスマネ画面からでも検索できたけど、私はVZから呼び出して使うのが好きよ、なんて話をしても誰もわかってくれなそうなので、まあそんな辞典を開発した会社だと認識していただきたい。ほかにも「直子の代筆」だとか「知子の情報」だとか発売してる。

 さて、「仮想旅行システム」とはなんぞや? 仮想、つまり「現実ではない世界=インターネット」の中だけで自由に旅を楽しむシステムである。といっても、自分が実際に旅をする訳ではない。「美穂の旅」に登録すると自分の分身が作られ、その分身がインターネットの中で世界中を旅することになる。どこに旅立つかは分身が決め、本体つまり自分はその様子を彼(あるいは彼女)から受け取るメールでたどるしかない。旅行期間は約1週間。メールはほぼ毎日届き、時には日に数回受け取ることもある。文章自体はさほど長くない。わたしはこのメールをiモードの携帯で受け取っているが、ほとんどのメールは最後まできちんと読める。また、分身が旅から帰ってきたら、その後何度でも旅行に出すことができる。場合によっては国内を旅することもあるらしいが、私の分身なぞ、ほとんど日本にいたことがない。彼女はいつも中近東あたりで遭難したり事故にあったり飢え死にしそうになったりしてる。かわいそーなヤツである。私が性格設定を「冒険的」としたばっかりに。

 「美穂の旅」では不思議なことに、受け取ったメールに返信すると返事が返ってくることがあるらしい。そのメールに返事を出すと、さらに返事が返ってくることも。一日何通もメールをやり取りした人もいるらしい。
 昔NIFTYには、誰もいなくてもチャットができる「人工無能」というシステムがあった。しかしこれがてんで使えなくて、こちらが声をかけると自動的に返事をするというのだが、まさに返事をするだけ。意味なんてまるで通らない。不毛な会話をしばらく続けていると、頭がどうにかなってしまいそうになる。しかし、「美穂の旅」の返事はまったく違っている。聞いた話だが、
「今、会社にいる。暇だ〜」
「暇なの? じゃ、なんかしてあそぶ?」
「へ? あそんでくれるの? じゃ、なにする? しりとりでもやる?」
「いいよ。じゃ、わたしから。”みほのたび”の”みほ”」
「”ほ”? じゃ、こっちは”ホテル”!」
「”ル”…オーソドックスに”ルビー”かな」…てな感じで、延々しりとりした人もいるそうだ。これはすごい。どんなシステムになっているのか不思議である。あまりにもできすぎている。

 不思議すぎるので、「美穂の旅」ホームページで調べてみた。そこには、次のように書いてあった。
「この機能は、テグレット技術開発が世界に誇る人工無能”天然”が分身になり代わって自動で対応しています。…(中略)…人工無能は1960年中ごろ、長崎市において開発が始まった、ニューロコンピューターというソフトウェアです。現在はテグレット技術開発のZAL9000という並列型スーパーコンピュータ上で動いています。…(中略)…特に吉本系のギャグや、ドリフ、クレージーキャッツに強く反応します。…(中略)…電力消費は限りなくゼロに近いということも天然の大きな特徴ですが、たまにとんかつやカツカレーを与えないとやる気をなくすそうです」。
 わからない。これでは全然わからない。しかし、それにしてもおもしろい。ちなみにわたしは何度か返事を書いてみたが、まだ一度も返事をもらったことがない。もっとも1日2万通受け取るメールの中で、返事がもらえるのは50通程度らしい。がんばって吉本やドリフのギャグを研究し、きっといつかは返事をもらおうと決意を新たにする私であった。

 と、ある日。ひょんなきっかけで「美穂の旅」取材という仕事をすることになった。しかも、メールに時々登場する人「松井さん」とお話できるとか。あんなこと、こんなこともしっかり聞いてやろうと、質問事項をLXでずらずら書き綴って取材に臨んだ。当然一番聞きたいのは、「天然」くんについて。なぜあんなすごいシステムを実現することができたのでしょうか!!

私「なんで返事が戻ってくるんでしょうね? メール本文から解析したりするのでしょうか?」
松井さん(以下、"松")「いや、その辺はいろいろ…」
私「言葉覚えていくってありましたが…育てゲーみたいな機能もついているんでしょうか」
松「いえ、そんなことは…」
私「でも不思議ですよねー。しりとりまでやれちゃうなんて。だいたいあのメール、誰か社内の人がチェックしてるんでしょうか?」
松「いえ、だからあの…。えっと、ほんとにわからなかったんですか?」

 後日、「アスキードットPC」を見た私は真実を知ってしまったのである。くしょう。だまされた。「普通、わかるでしょ。あれだけ書けば…。だって消費電力が限りなくゼロなんですよ? 吉本が好きなんですよ? カツカレーが必要とかいっちゃうんですよ?」といってた松井さん。そうだったんですね。わからなかった私が馬鹿だったのでしょうか。それとも、夢を見すぎたのでしょうか。ずっとお返事くれる「天然」くんさえ手に入れば、もうひとりぼっちでもさびしくないもんと思ったのに。


●あとがき
 メールっておもしろいですね。たとえ相手がだれだかわからなくても…。という訳で、わたしにもメールください。お返事書きます。作品に関係ない話でも結構です。雑談しましょう。

かなしい気持ち

なにがそれほどかなしいのか、自分でもよくわからないときがある。たとえば音楽。店の中に流れる曲の1フレーズを聴いたとき、頭の先から足の先まで一瞬なにかが駆け抜ける。その瞬間は、まだわからない。今わたしが感じた感覚、これがなんなのかを理解するには、さらに別の記憶を呼び覚ますという作業が必要になる。しかし、「気持ち」はおかまいなしだ。理由などなく、ただただかなしい。風を思い出し、温度を思い出し、声を思い出し、立ち止まって振り返る。


    *    *    *    *    *    *


 インターネットとは不思議な場所で、世界中の人が自由に出入りしているらしい。足跡もウワサも見つからない「あの人」に出会うため、私はあるサービスを利用している。

ウェブ同好会「この指とまれ」(http://yubitoma.sphere.ne.jp/)

 このサイトは、自分のいた地域、学校に名前を登録し、同じ時代に同じ場所にいた人と出会うことを目的として作られた。たとえば、わたしは昔「富田林市立寺池台小学校」に通っていたが、このサイトの中にある同名の学校に自分の名前と卒業年を登録しておけば、同じ時代に同じ学校に通っていた人の名前を見つけたり、あるいは相手が私の名前を見つけたりして、メールで言葉を交わすことができるかもしれない。とはいえ、まだまだこのサイトに名前を登録している人は少ないらしく、親しかった同級生に出会うことは稀なようだ。わたしは小学校、中学校、高校、大学と4つの学校に通ったことがあるので、どうせならとまとめて全部登録してしまった。

 期待を込めてリストをチェックするが、なかなか知っている名前は見当たらない。同級生といっても、一学年150人からいるんだから、その中の1割が登録していたとしても15人。同じクラスにいたとしても、私が覚えているのがまたその1割として1〜2人。そうそう見つかる訳がない。
 半ばあきらめながら高校時代のリストを眺めていると、頭の中でなにかがちかちかっと閃いた。慌てて目をこらしてみる。と、そこには同じクラブに所属していた男の子の名前があった。「ケイゾーくんだ!」。気づいた途端に、心臓が飛び上がった。「なんてこった、ケイゾーくんだ!」。駆け回りたいという、妙な衝動に駆られる。なんで今わたしは走りたいのか、そんなことは知ったこっちゃない。とにかく、この名前を見たら走りたくなるらしい私は。家の中をパタパタとめぐりながら、頭の中は急いで「ケイゾーくん」に関するデータを集める。記憶の彼方から、いろんな情報が集まってくる。「そうそう、同じクラブだったんだけど、うちのグループはてんで人気がなくて、あちらは学年代表だもんね」「そういえば、ヤツは私の隣の席だったこともあるぞ」「ん〜よくアホっていわれてたような気もする」…思い出さなくていいことまで、どんどん思い出してしまう。「あ、コロンをつけていたっけ」。ここでぴたっと足は止まる。鼻の中に、コロンの香りが広がる。甘くてすっぱい、柑橘系の香り。
 そういえば、何故そういうことになったのかといういきさつは忘れてしまったが、一度彼と筆箱を交換して帰ったことがあった。家で勉強をしようと筆箱を開いたら、あの独特の柑橘系の香りが広がってドキっとした覚えがある。背が高く、髪が長く、ギターを抱えてきれいなハイトーンでボーカルを担当していた彼は、当時かなり人気があった。「モテる男はキライ」だった私は、そんな彼を「好き」だなんて認めたくなかったし、果たして好きだったのかどうか、今のわたしにもわからない。ただ、あの香りだけは胸の奥をざわつかせ、その夜なかなか眠れなかったことだけは覚えている。

 そんなことまで思い出してしまったから、もうたまらない。その後のケイゾーくんに興味は尽きず、ついにメールを書く決意をした。らしくなく、キーボードを前に肩に力が入る。なんとかけばいいだろう、なんとかけば…。まずは名前だ。「こんにちは、井上です。覚えてるかな…」。おかしな話だが、このときほど「離婚してよかった」と思ったことはなかった。なんせ、旧姓のままなんだもの。「岩田(旧姓、井上)」という表記は、なんかかっこ悪いような気がする。井上なら、なんの注釈もいれずに「井上」のままでいい。これだけのことが、なんとも嬉しい。その後、自分の近況だの、学校時代のことだの、つらつらと書き綴ってえいやっとメールを送信した。ままよ、あとは返事を待つだけだ。

 翌日、待ちに待ったケイゾーくんからのお返事メールが届いた。「おう、もちろん覚えてる…」。とりあえず忘れてはいないらしい。ちょっとだけほっとした。こっちが覚えているのに、あちらが忘れているなんてイヤすぎる。「今東京で仕事しとるんやで。時々村岡とも飲んだりする」。懐かしい名前があった。なんとなく嬉しい。「東京やったら、いつでも会えるな! 今度飲みに行く?」。ケイゾーくんのお誘いである。断るわけにはいかない。「ぜひぜひぜひっ!」と「ぜひ」を3つもオマケしてしまう。
 現在2つの会社の社長をやっている彼は、とても仕事が忙しそうだった。ということで、ランチをご一緒するというお手軽なパターンに落ち着いた。昔よりかなり太ってしまった私は、いろいろ試した結果、一番細く見える服をえらんだ。念入りに化粧し(といっても、ファンデーションと口紅とアイブロウしか持っていないが…)、張り切って待ち合わせ場所に向かう。
 電車に乗って座席に座り、ふと前の席に座った会社員を見た。仕事に疲れたサラリーマン風の彼は、大きなお腹を揺らしながら2人分ものスペースを占領した。「やーね」とその顔を見ると、さほど年はとっていない。そう、わたしと同い年くらいの男だ。瞬間、悪い予感が走った。なんのかんのいっても、もうすぐ40に届くという年齢なのだ。ケイゾーくんだって、きっと昔とは違う。この前に座ったオジサンのごとく、ビール腹揺らして笑うオヤジになってしまったかもしれない。そうなっていたらどうしよう、そうなっていたら…。私は自問自答してみた。「みか、あんたはそんな彼を見ても、にこやかに笑っていられるかしら?」。おそろしいことに、答えはノー。悪いけど、私は正直者なんだ。そんな姿の彼を見たら、きっと顔をこわばらせ、まっとうな受け答えができなくなるに違いない。そんなことになったら、かわいそうなケイゾーくんは、きっと自己嫌悪に陥ってしまう…。自分だって相手にがっかりされるかもしれないというのに、全くいい気なものである。相手が変わり果てた姿でも、いかに普通に振舞うかという大問題の前に、自分の中にも過ぎていった時間なんてすっかり忘れてしまったらしい。いつの間にかケンタッキーおじさんのごとく膨らまされてしまったケイゾーくんが、私の頭の中を占領していた。

 「ケンタッキーケイゾーくん」に頭を悩まされているうちに、待ち合わせの場所についてしまった私。いろいろ考えても仕方ない。すっかり観念して、約束通りケイゾーくんの携帯に電話をかけた。「着いた?そしたら、すぐ行くからそこで待ってて」。電話から、20年ぶりの声が聞こえてくる。ありがとう、声だけは昔のままです、わたしはこのまま家に帰ります…。くるっと方向を変えて「ケンタッキーケイゾーくん」に別れを告げ、もう一度電車に乗り込みたい。しかし、無常にも電話の声はそれを許そうとはしない。「そこからすぐ近くにいるんだよ…ほら、ついた。あれ、どこにいる?」。咄嗟に、身近な路地に身を隠す。どうやら敵は近くにいるらしい。電話をもったまま、キョロキョロとそれらしい人物を探す。携帯をもって回りを見回している男は…当然、すぐに見つかった。ケイゾーくんは、昔から背が高かったのだ。ひと回り背の高い男が、あちこち見ながら携帯でしゃべっていた。まずは腹部を確認する。…よかった、ビール腹じゃなかった。次に顔をチェックする。アゴを囲んだもしゃもしゃヒゲに、少なからずショックを受ける。
 「ケイゾーくん、ここだってば」。電話でしゃべりながら、彼に近づく。「あ、そこにおったんか」。目の前には、笑顔のケイゾーくん。その表情を見た途端、一気に時間がさかのぼった。うひゃー、こいつ変わってない!ヒゲは全く印象を変えているけれど、ヒゲの奥にある素顔は昔のままだ。いろいろ心配していた私は、ほっとしながらふと我に返った。ヤバイ、こいつ太ってない。しかし、わたしは完璧に太った! 「井上、元気そうやなあ」という彼の言葉が、ハートにつきささる。キャシャな少女だった頃を知っている男が、しげしげと私を眺めている。居たたまれなくなった私は、「久しぶりやね〜!変わってないね〜!」を連発しながらさっさと歩く。こんな状況で、じっとなんてしていられない。

 昼時なので、どの店も混んでいる。「ここでえーか?」と入った店は、ちょっと高級そうな天麩羅屋さん。お互い、こんな高級な店でお昼食べられる身分になったんやねえ、としみじみする。それってつまり、それだけ年をとったということなんだけど…。
 「それにしても、変わらないね。昔のままやん」「そうか?そんなことないで。途中めちゃめちゃ太ったりしたし…」「村岡くんって懐かしいわあ、元気にしてる?」…話は弾む。不思議なもので、同じ時間を共有した人といると、すっかり忘れていたはずのことまで思い出す。「由美もこっちにいるんよ。それからね…」。アレからどうした情報が飛び交う。なにを聞いても懐かしい。
「そういえば、秀島さんって覚えてる?」「うんうん!保先輩でしょ、覚えてるさー」。懐かしい名前第5弾目くらいになると、思い出す速度も加速する。「保先輩のおかげで、わたしギター弾けるようになったんだもん。それにほら、私の詩に曲つけてくれたのも先輩やったでしょ。覚えてるに決まってるよ。なつかしー! 先輩、今どこに住んでるの?」「秀島さんな、死んだんやで」。
…。
…。
…。
「…うそぉ」
「ほんまに。19才やったかな。あのあと、すぐや。バイクで事故ってなあ」
「知らんかった…」
「みんな知ってたと思ってた。知らんかったんか。一法さん、ひどくショック受けてさあ、大変やったんやで」

 ケイゾーくんの声が、遠くなった。鼻の奥がツーンとする。ヤバイ、これは泣くな、と思った。目を見開いて、どうにか我慢する。泣いてはダメだ、と何度も自分に言い聞かせた。なんで泣きそうなんだろう私、と考えている余裕はなかった。ともかく、今日は泣いてはダメだ。ケイゾーくんと、天麩羅を食べよう。
 目の前にある海老天に箸を伸ばす。「うん、食べよう。ここ割と人気あるんやで」。ケイゾーくんも、天麩羅を食べ始めた。食べているときは、しゃべらずに済む。うつむいて天麩羅をほおばる。もぐもぐもぐ…。食べながら、突然襲いかかった激しい悲しさを胸の奥に封じ込めた。

 その後、どうにか悲しみを遠ざけた私は、再びテンション高くケイゾーくんと懐かし話に花を咲かせた。あっという間に1時間は過ぎ、彼は会社に戻るといった。
「また会おうな。今度は村岡たちも呼んで」「そうね、また会おう。今度会うときは、高校のときのケイゾーくんの歌声を録音したテープ、持ってきてあげようね」「そんなんあるの!そしたら、絶対もってきてや!」。
 再会を誓いあって別れた。背の高い彼は、手を振りながらスタスタとオフィス街に消えていった。

 家に戻ると、封じ込めていた悲しみがよみがえってきた。もう誰に遠慮することもない、泣きたいなら泣けばいいと思った。不思議なことに、そう思うと涙も流れてこない。食卓にバッグを置き、興奮して疲れた頭をぼーっと休憩させながら、思うでもなく保先輩のことを思い出していた。細い人だった。女性のようにきれいな面立ちだった。留年して、三年生を二度やっていたらしい。誰もがすぐに覚えてしまうような、印象的な曲を書く人だった。わたしの書いた詩に曲をつけ、ライブで歌ってくれたこともあった。タバコを吸って、停学になったこともあったっけ。見るからに繊細で、でもいつも悪いことばかりやっていた先輩だった。下級生は皆、秀島さんの曲をギターで練習するところから始めていた。そういう意味では、神様みたいな人だった。

 それよりも何よりも、なぜ私が涙を流さんばかりに悲しいのか、誰かその訳を教えてほしかった。保先輩のことなんて、ここ何十年も思い出したこともなかったのに。もともと心の中になかった人が、「死んだ」と聞いただけで急に重要になるなんて、そんなことある訳がない。
 しかし、悲しみはいつまでも続いた。翌日も、その翌日も、朝目が覚めるたびにうんざりした。最初に頭の中に浮かぶ言葉が、「保先輩は19で死んでたのに…」という言葉。その続きが知りたかった。「死んでいたのに、」の続き。わたしはそこに、どんな感情を続けていたんだろう。「私ばっかり楽しくて」だろうか、それとも「音楽やってると信じてたのに」だろうか。なにが、わたしをこれほど参らせているのだろう。それがわかるまで、この行き場のない悲しい気持ちは終わらないような気がした。

 ある日、PHSに友だちからショートメールが届いた。彼女の近況がつづられている。何度かメッセージをやり取りしながら、わたしは彼女にこの話をしてみようと思った。
「先輩が死んだのを、今頃知ったの。それが悲しくてね。19のときに、バイク事故で死んだらしいんだけど…」。彼女は、当たり前のように返事を返した。
「知らなかったのがツライんだね。その不在をしらなかったってことが」。
 このメールを読んだ途端、胸のつかえがずーっと降りた。そうだ、私「知らなかった20年間」が悲しかったんだ。先輩がどこかにいると思っていた、信じていた、その20年間が。「保先輩は19で死んでたのに…」の続きは、「だけど私はそれを知らなかった」。不在を知らないせつなさを、わたしはこれまで経験したことがなかった。だから、そんな悲しさをどうしても理解できなかったらしい。

 やっかいなことに、「悲しさ」や「切なさ」は、理由より先にやってくるものらしい。ふいに襲われた悲しみは、とりあえず悲しんでやるしかないようだ。保先輩の不在を知らなかった悲しみは、その後どうにか居場所を見つけ、録音テープを聞きながら涙を流させたりもした。


●あとがき
 真花です。激しく夏バテ中。春は花粉で眠れないし、夏は暑くて眠れないし、冬は冷えて眠れないし、まったく四季のある国はやっかいです。

マッサージサロン★潜入レポート

「もうこれからは、マッサージでしょ」(C)スタパ斎藤
 …という訳ではないが、私的に今マッサージが旬である。これまでずっと息子にマッサージさせていたのだが、仕事が続くと共に肩のコリも激しくなり、息子が揉んでも蚊がとまった程度にしか感じなくなってしまった。こうなったらしょうがない、プロにお任せしようと決心した。お金はかかるかもしれないが、それで仕事が続けられるのであればよし。もしかすると、うまいネタを拾えるかもしれないし(こっちがホントの理由だったりして)。

 マッサージにもいろいろあって、一般的によく知られているのが「15分1,500円」のクイックマッサージ。横にならなくてもマッサージしてもらえるし、ビジネス街には必ず何店舗かあるので、忙しいビジネスマンでもちょっとした時間を作って治療が受けられる。昼間クイックマッサージに入ってみると、スーツ姿の男性がズラッと並んでマッサージを受けている。さぞかし激職なのだろうと思うと、お疲れさまと声のひとつもかけたくなる。しかし、私のコリはこの程度でもまったくダメ。何度かいってみたことはあるが、瞬間軽くなった気がするだけで、あっという間にコリが戻ってきた。なので、今回はもう少し本格的なものを試すことにした。

 最初に私が出かけたのは、近所にある整体マッサージ。整体というと、なんとなく本格的なイメージがある。整体初心者は、エステサロンのごとくン万ふんだくられるんではないかと、つい余計な心配をしてしまう(私だけかも)。そんな不安を取り除くためか、最近よく郵便ポストの中に治療費が明記されたマッサージ店のチラシが入っている。今回挑戦したのは、チラシに「初診料2,500円、治療代3,000円」と書いてあった店。嬉しいことに、場所もうちの近くだった。電話で予約し、走って1分で店に着く。あっという間に到着した私に驚きつつも、先生はすぐに治療を始めた。まず、普通に立つところからスタートした。先生が、右から左から何度も眺めてうなずく。
「なるほど。姿勢は悪くないですが、体は若干歪んでいるようですね。では、そこに寝そべってください」
 病院の診察室にあるような白いシーツでくるまれた台に横たわり、妙な形の枕にアゴを乗せた。先生は、体中まんべんなく見て回る。次に背中を押し、両足を引っ張った。うんうんとうなずきながら、腰をひねるように動かす。
「思ったより悪いですね。立っていたときは姿勢がよかったのに、横になってみるとゆがみが激しいようです。体が自主的に矯正していたようですね。では、最初だから軽く治していきましょう」
 背中を押し、足を引っ張り、腰を動かし、首を揺さぶる。先生は、忙しくあちこち様子を見ながら、痛くないように加減しつつちょっとずつ治療し始めた。その甲斐あってか、ゆがみはよくなったらしく、治療後すぐに立ち上がるとちょっと斜めに立っているような妙な感じがした。先生は笑いながら、「帰りは気をつけてくださね。よく階段から落ちる人がいるようですから」と言った。笑い事ではない。何もしなくても階段からよく落ちる私だ。これは絶対に落ちる。慎重に手すりを両手で持って、ゆっくりゆっくり降りていった。地面に届いても、まだ気は抜けない。まっすぐ歩くにも十分注意が必要だ。こんな調子なので、来る時は走って1分だったのに、帰りは10分以上かかってしまった。
 帰り際に先生が「今日はきっと仕事にならないと思います。からだが疲れていると思うので、昼寝してください」と忠告したが、私にそんな余裕はない。明日出さなければならない原稿があるのだ。本当は、忙しい時に整体しない方がいいんだそうだ。でもやっちゃったものはしょうがない。気合を入れてパソコンの前に座ってみるが、そのままスヤスヤと昼寝してしまった。肝心の効果はというと、治療の翌々日に現れた。はっきり言って、中1日は体中が痛くてしょうがなかった。しかもダルい。こんな体で原稿書く羽目になってしまうとは。計算違いに、すっかり参ってしまった私だ。

 その翌週、またもや体が痛くなった私は、ダルくならないよう別のマッサージを探した。タウンページによると、駅前にマッサージサロンがあるらしい。早速電話してみる。
「今なら空いてますよ」
 予約を取り、すぐに出かけた。こちらの店は徒歩3分のところにある。料金は15分1,500円。公正を期すため、近い金額である30分3,000円のコースをお願いした。2階に上がり、良い香りとリラクゼーション音楽に包まれながら、台に横たわる。ウトウト眠くなってきたころ、先生が横にたった。
「どこがお悪いんですか」
 全身マッサージしながら先生が尋ねる。しかし、答える前に判ってしまったようだ。
「ひどく凝ってますね。これは痛いよね。しかしひどいなぁ」
 先生は何度もそう言いながら、懸命にマッサージを続けた。手が熱くなってくるのがわかる。力がはいっているのだろう。いつも凝っている背中と肩のあたりをぐりぐりともみほぐす。
「ここがひどいですね」
 額に汗を浮かべながら、ひたすらもみ続ける先生。かなりご年配なので、なんだか申し訳ないような気がする。ホントなら、私の方がマッサージしてあげなくてはいけないような気持ち。とても居心地の悪い罪悪感。客なんだから仕方ないと、自分に何度も言い訳をする。あっという間に30分間は過ぎ、わたしの肩はすっかり楽になったけれど、気持ちはかなり重くなった。「ひどいコリでした。これだけひどいと、一回ではよくなりません。これからちょくちょく治療にきてくださいね」と、先生。はい、と答えながら足早に店を出る。年配の方=キャリアを積んだプロという見方もあるが、わたしはやっぱり古い人間なんだろうか。「若いもんが年寄りに肩揉んでもらってどうする」と、しかられそうな気がしてならない。だったら、ヘタでもいいから若いねーちゃんに適当に揉んでもらったほうがナンボか気楽だと思った。
 さて、こちらのマッサージを受けた後も、やっぱり半日ダルかったような気がする。マッサージとは、すべからくダルくなるものなのだろうか。本当につらい時、ちょっとでも楽になるならとマッサージ通いを決意したのだが、ますます仕事が出来なくなってしまうようではいけない。揉んでもらって、楽になって、その後すぐに仕事がザクザクできるマッサージがあれば、私は何度だってその店に通うつもりだった。ここであきらめてはいけないと、次の週末ふたたび別のマッサージ店に挑戦してみることにした。

 今度のターゲットは、若者の街「渋谷」。「しぶや」と呼ぶのが正解だが、宅の息子は時々「しぶたに」と呼ぶこともある。「しぶたに」と呼ぶと、いかにもしぶ〜い感じがして若者の街というイメージから遠ざかる。その実マッサージ店の多い「しぶたに」を目指し、私は午後一番に電車に乗った。今度の店でなんらかの効果が見られない時は、「マッサージ」そのものの存在意義を疑ってみようとさえ考えている。覚悟は半端ではない。
 道を歩いていると、いきなり「浪越指圧」という看板と出会ってしまった。太いフォントが力強い。下に、「このビル7階」とある。オノレの腕に絶対なる自信をもったその看板を好ましいとは思ったが、なんとなく気が乗らない。どうしようかな、とあたりを見回してみたら、反対側のビルに「Healing Studio ベルデ」という看板があった。「Healing Studio」というアヤシイ響きに魅了された私は、浪越指圧に別れを告げて反対側のビルのエレベータに乗った。
 「Healing Studio ベルデ」は、「インド系マッサージ」のお店である。店内にはいつもハーブオイルのいい香りが充満しており、おねえさんの説明を聞いているだけで頭の芯がぼーっとしてくる。BGMにインド音楽が流れていて、うっかり睡眠不足の状態で店に入ったら、そのまま眠ってしまいそうな雰囲気だ。「こちらは半身マッサージ、こちらはフットマッサージの料金ですが」とチラシを渡され、なんとなくお得そうな「全コース60分4600円」というヤツをお願いする。首と肩、上半身をハーブオイルでマッサージし、最後に20分間「頭皮マッサージ」を施すのだそうだ。この「頭皮マッサージ」というのがものすごく効くんだそうで、いやおうなく期待は高まる。
「では、この部屋で着替えてあちらの廊下に出てください」
 着替え室に入ると、ガウンと紙パンツが用意されていた。服は全部脱いでしまい、紙パンツとガウンをはおって廊下に出る。「着替え中に男の人が入ってきたらどうしよう」と気が気ではなかったが、あとでよく聞いてみたら、どうやら女性専用の店だったらしい。
 カーテンで仕切られた個室に通され、ベッドに横たわってすぐガウンを脱ぐ。腰から下はタオルで隠してもらうが、なんとなく恥ずかしい。これまで受けたマッサージは全て着替えなしだったので、これだけでもずいぶんスペシャルな気分だ。いい香りのハーブオイル(あらかじめ好みの香りを選べる)を塗って、いよいよマッサージが始まった。
 私の担当は小柄な女性だったが、これまでのマッサージがウソのように力強い。いち早く背中のコリを発見した彼女は、「最近コリを小さくするのに凝っているんです」と、グリグリ揉みほぐし始めた。スタートから約10分。信じられないことに、私の肩の上にずっと居座っていたコリの痛みは、すーっと消えてしまっていた。その後、少しずつ彼女の手の下で全身の血行がよくなり、リンパの流れもサラサラになり、冷たい皮膚が暖められ、生気を取り戻していくのが実感できた。最後に「頭皮マッサージ」を受ける頃には、すっかり眠気を催していたほど。「はい、終わりましたよ」とホットタオルを渡され、やっと目を覚ました私。部屋を出て着替えを済まし、おいしいハーブティをいただきながら、「これならすぐにでも仕事ができる」と思った。まったくダルくないのだ。ちなみに、「頭皮マッサージ」の正体は「頭のツボ押し」であった。目の疲れには、特によく効くんだそうな。パソコンで仕事する機会の多い人は、ぜひ一度お試しあれ。視界が一気に明るくなる。
 その後、しばらく肩や首のコリは戻ってこなかった。わたしはいつになく元気で、その結果思った以上の仕事量をこなすことができた。ついに夢のマッサージを発見したのである。長い道のりだった。しかし、世の中には指圧やツボ押し、針、お灸など、ありとあらゆるマッサージがある。そんな中、わずか3回目で相性のいいマッサージを発見できたのは、むしろ幸運だったともいえる。これからは定期的に「インド系マッサージ」の恩恵を受けるべく、日夜お仕事に励む覚悟である。


●あとがき
 ViaVoiseを買ったんです。これでサクサクサクっと原稿書けるはずだったんです。しかし、あれですよね。こいつはホントに馬鹿ですね。たった2000文字に1時間かかるんだったら、絶対手でキーボード打ったほうが速い。失敗でした。

ネットオークション★潜入レポート

 今、Yahooオークションが熱い。各誌特集でそう書いてあるんだから間違いない。わたしがオークションに手を出してしまったきっかけはなんだっただろう。おそらく友だちが「Yahooオークションでボロもうけした」と自慢したあたりからだったに違いない。彼女は家の中に眠っていた大昔の人形のホコリを払いつつ出品し、かなりのお小使い稼ぎをしたらしい。さすがに出品するほどの勇気はないので、とりあえずID登録して出品されている物をウォッチングすることにした。
 オークションには、いろんなものが出品されている。本やCDは予想の範囲だったが、ブランド物や旅行チケット、古着、レコード、ポスターまで出されているのには驚いた。極端な話、ここだけで買い物は済んじゃうんじゃないの?という勢い。一時は人まで売っていたらしいが、さすがにそこまでヤバいものはもう出ていないらしい。新宿や渋谷界隈であやしげなおにいさんが「いいのあるよ」なんて女子校生に売りつけているナゾのキャンディとかも見つかりそうな無法ぶりなんだけど。
 ひとつひとつ商品を見ていてもキリがないので、ここは一発キーワード検索をかけてみることにした。さんざん悩んだあげく「アンジェリーク(PS用ゲームソフト)」といれてみたら、かかるかかる。ヒットした商品リストは数ページに渡った。さてさてその内容はというと、トレーディングカードやら販促用ポスターやらテレカやら、およそ予想とかけはなれたものばかり。わたしが欲しかったのは「アンジェリーク」のゲームソフト。それもなくはないが、「プレミアムBOX入り」とかレア物ばかりで、お値段もそこそこ高い。これならコーエー通販で買ったほうがマシだと、一瞬オークション熱は冷めかかった。
「何やってるの?」
 そこでモニターを覗きこんだのは、春休みで遊びにきた娘。
「これ? ネットオークションっていってね、インターネットでバザーができるところ。ほら、子供会でもやってたでしょ、バザー。あんな風に、家にあるいらない物をここで売れるみたい。バザーは商品の値段を自分で決めたけど、オークションは買う人が値段を決めるらしいよ」
「ふーん」
「ほら、ここに欲しい物の名前をいれるでしょ。んで、ボタンをクリックすると、その名前の商品がずらーっと出てくるの」
「へえ、おもしろそう! ね、やらせてやらせて〜」
 彼女はモニタの前に座り、腕を組んでしばし熟考。
「何にしようかな…。あ、そういえば電卓がいるんだった。電卓にしよっと」
 余談だが、娘は今年中学に入学する。元夫と二人、元気に父子家庭やってる彼女の健気さはまさに落涙もので、愛読書は「Papa told me」だ。そんな環境の中、日々彼女の「オバサン」度は強まっていき、ネギが安いと聞けばタイムサービスに走り、いただいた図書券は古本屋で100円の本を買って400円という現金に変える。久しぶりに会ったんだからとごちそうしようとしても、「おかあさん、無理しちゃだめよ。お金ないんだから」と逆に諭されてしまう始末。
 話を戻そう。彼女はキーワードに「電卓」といれ、検索ボタンを押した。数々の電卓がリストアップされる。ハイテク電卓からiMACカラーの電卓、カード型など、種類も豊富ダ。
「どういうのがいいの?」
「うーん、家で使うやつだから、大きくて見やすいのがいい」
「んじゃこれは?」
「…高い」
 それじゃあと彼女の予算を聞くと「100円くらいかな」とのたまう。100円の電卓なんて送料のほうが高くつきそうだが、そこはやっぱり子供なので送料のことまで考えない。でもここで送料の話をするとやめてしまいそうなんで、あえて説明しないことにした。それよりも、100円なんていう商品があるのかどうか、私も興味津々である。
「あ、これがいい!」
 嬌声と共に彼女が指さしたのは、なぜかワニの人形。
「え、これ電卓?」
「電卓だよ。だってここにそう書いてあるし」
 確かに「ワニの電卓」というタイトルになっている。
「これかわいいし、しかも電卓だし、100円だし」
 娘は夢中である。これがかわいいとは、ユニークな感性だ。写真の下に、「一応電卓機能はついていますが、とても使いにくいです」というコメントがあるが、そんなところまで見ちゃいない。自分の思いがけない発見に、ひたすら喜ぶばかりである。「お金は私が払うからさ、これ申し込んで!」と何度も頼むので、しょうがなく初めての入札を試みた。希望価格に「150円」といれる。「えーーー!100円じゃないとやだー」と娘は文句タラタラだが、「今100円なんでしょ。だったら、それ以上の値をつけないとオークションにならないじゃん」と説得する。しぶしぶ了解させ、次にIDとパスワードを入れて入札…のはずだったが、初めてオークションに参加する人は、別途メール承認システムで手続きをとらなくてはならないらしい。面倒な気もしたが、娘の期待に満ちた目を見ると途中でやめる訳にもいかない。地道な承認作業を終え、ふたたび電卓の画面で150円入札する。しかし、どうやら「Yahooオークション」では最初に入札した人に限り、次の人が入札するまで価格は動かないらしい。「あれ、100円のままだ」という私の声に、小躍りして喜ぶ娘。その後丸一日、娘はずっとオークションを監視し続けた。
「ほかの人に取られないかなあ…」
 彼女の表情は、真剣そのものだ。しかし、やっぱりこの「使いにくい電卓」に目をつける人はほかにいないらしく、価格はずっと100円のままだった。
 翌日、娘は父の待つ家に帰った。「ワニの電卓」落札日まで、まだあと3日ほど間がある。娘は、「おかあさん、あとは頼んだ。あの子がほかの人に取られないように、がんばってね」と言葉を残した。かわいい娘のたっての願いである。叶えなくてなるものか。私は彼女の意志を引き継いで、その後ずっとワニ電卓を監視し続けた。しかし彼の評価は微動だにしない。いつまでたっても100円のままだ。ここまで人気がないと、落札するのも複雑な気分である。ついに値はあがらないまま、100円という信じられない価格で「ワニ電卓」は見事娘のものとなった。私はさっそく娘に電話し、「ワニ電卓、100円で買えたよ」と報告する。電話のむこうで歓声が聞こえた。彼女が喜べば私も嬉しい。オークションなんてウサンクサイと思いかけていたが、この1件でぐっと好感度アップ。わたしも何か落札するぞと、いきなりオークションウォッチャーになってしまった。その後わたしがオークションで手に入れたのは、ローラアシュレイのセーターおよびジャンバースカート、愛用しているVisorのスタイラス、ゲーム攻略本、昔愛読したコミックなど、すでに8点。中にはちょっとしたトラブルもあったが、ほとんどが気持ちのいい取り引きだった。なにより、商品に添えられた短い手紙が嬉しい。
 後日談になるが、「ワニ電卓」にはオマケとして新しい電池とかわいいシールが同梱されていた。オマケだけでも、ゆうに100円は越えている。多分これを出品した人は、お金を儲けようと思って出したのではないのだろう。このあたりの心境を追体験すべく、私も何か出品してみようと企み中。まず、かわいい梱包材料とオマケを考えなくては。


●あとがき
 ただいま書籍執筆中。途中でパソコンがお亡くなりになるなどの障害に見舞われつつも、どうにか出版できる見込みがたちました。おそらく今月末頃書店に並ぶはずなので、お目に止まったらどうか立ち読みなどせずに、お財布を用意してぜひレジまでご持参ください。

恥ずかしい再婚

 つい最近、再婚した。ついでに息子も高校入学したし、こうなったら家も新しくしてしまえと、勢いよく新居を購入した。息子が上京し、二人暮らしを始めた三年前を思うと、ありがたくて涙がこぼれる。日のあたらない2DKで肩を寄せ合ってコンビニ弁当をむさぼり食っていたあの頃、未来永劫このボロアパートから脱出することはないだろうと、私は自分の寂しい老後を思って泣いたものだった。

「生きていれば、なんとかなる」
 昔どこかで聞いた台詞だが、まさしくその通り。どうにもならないと思っても、生きていればなんとか道は開けるものだ。
 一生貧乏暮らしを決意し、職を失ったらホームレスしかないと思いつめていた時代もあった。しかし、少しずつだが仕事がくるようになり、それなりに収入も安定してくると、だんだん気持ちも落ち着いてくる。やがて私は、明日の食費を心配しなくなり、1ヵ月後の食費に思い煩うことがなくなり、半年後には死んでいるかもと恐怖することがなくなって、いつの間にか当たり前のように来年の旅行計画まで立てるようになっていた。あれほど悩んでいた日々がウソのようだ。喉元すぎれば熱さ忘れるというか、いやむしろ頭が悪すぎるというべきか。

 しかし、たとえ生活が安定したとしても、息子が結婚してこの家を出ていけば、私はやっぱりひとりぼっち。寂しい老後を迎えるという運命からは、決して逃れられないのだ。だが、いつの間にかその心配もやんわりと解決されていた。気がつくと、当たり前のように一人の男性が私の隣に立ち、一緒に未来を語っていた。
「これって本当なのかな」
 三年かけて培われてきた悲観主義は、現実をなかなか受け入れようとしない。私は何度も自分の腕をつねってみた。
「きっと私、数ヶ月前交通事故に遭って植物人間になり、今病院のベッドの上で夢を見ているのだわ。だって、こんな都合のいい話が現実であるはずがないもん」
 そのたびに、これは現実なのだと、自分は現実の人間なのだと、彼は根気よく説得を続けた。二人が結婚するには、まず自分の存在が現実なのだと私に信じ込ませなければならなかったからだ。なんともご苦労な話である。

 そんなこんなで、息子が中学を卒業した後、バタバタと入籍の手続きを済ませた。ついこの間「井上」に戻したはずの戸籍が、またナニガシの戸籍に入れられる。身分証明を求められて免許証を提示するたび、「現在のあなたの名前は、この中のどれなんです?」と訊ねられる。なんたって、1つの免許証に3つの名前が書かれているのだ。正直いって、自分でも自分が誰なのかわからない。「多分、一番下にあるのがそうです」と、心細い声で答える私。こんな情けない話はない。

「ところで、新しい旦那様ってどういう人?」
 友だちや親戚に結婚の報告をすると、必ずこう質問される。
「どんな仕事してるの? いくつの人?」
 なんでもない質問だ。当たり前の会話だ。でも、私にとってこの質問は、なにより恐ろしい。これを聞かれたくなくて、結婚したという報告がなかなかできなかったほどだ。
「ん。あのね、年下なの」
「へー、いいじゃん。流行りだよね。どのくらい下なの?」
「…かなり下」
「かなり? でもまあ、最近そうだよね。3才や4才下なんて、当たり前だもんね。平気だよ。そんなもんなんでしょ? …え、違うの? もっと下? じゃ、5才とか…6才とか?」
「もっともっと下」
「え…。じゃ、8才とか?」
 泣きたくなる。彼女たちにとって、これがおそらくギリギリの線なんだろう。
「違う。あのね、干支が一緒なの」
「…へ?」
 こうして、あのイヤな沈黙がやってくる。干支が一緒と聞いて12才下という数字をはじきだすまで、かなり時間がかかるらしい。
「待ってね。えっと、それって…。彼、今いくつなの?」
「27才」
「…えええええええーーーーー!」
 そう、だからイヤなのだ。この年齢差を聞くと、相手は平常心を失う。しげしげと私の顔を見つめる。ゴメンなさい、ゴメンなさい! 訳もなく、誰にともなく謝りたくなる。なんだかとっても悪いことをしているような、そんな不条理な気分になってしまう。

 笑っちゃうんだけど、これが本当の話。私の息子は、今年15才。つまり、息子と彼は12才違いで、彼と私がこれまた12才違い。全員同じ干支である。ここまでそろうと、もうネタとしか思えない。
 先日、我が家に引越し屋さんが荷造りにきた時の話。黙々と作業を続けるお姉さんたちにお茶をお出ししたところ、一服つきながらしみじみと彼女はいった。
「それにしても、いい息子さんたちですね。どんな風に育てたら、あんなにいい子に育つのかしら」
「ええ…。ん? あの、息子たち、ですか?」
「そうそう。男の子の兄弟っていいわね。うちなんて娘しかいないから」
 私は頭を抱えてしまった。彼女は確かに、「息子たち」といった。しかも、「男の兄弟」といった。ってことは、多分…。
「あの、息子は一人しかいないんですけど…」
「え? あ、あら? じゃ、あの年上の方は…」
「はい、息子じゃなくて、旦那です」

 その後の気マズイ雰囲気といったら。彼女は赤面しながら口の中でモゴモゴ謝罪の言葉をつぶやき、慌てて作業に戻った。相当気が動転したのだろう。あっという間に仕事を片付け、「すいませんでした!」と言って、脱兎のごとく去っていった。お礼をいう暇もない。
「息子ね…」
「まあ、なんでもいいんじゃん。つまりは家族ってことなんだから」
 屈託なく笑う彼だが、私はそう簡単に片付けられない。
「これからも、こんなことがいっぱいあるのでしょうね…」
 今後の自分の運命を思うと、なんともみじめな気持ちになる。これから私は、どんどん年をとっていく。今はまだ27才と39才だが、私が60才になった時、彼はようやく48才になる。60といえば、還暦。引退して田舎に引っ込む頃である。しかし、その頃彼は、48という働き盛りを迎える。
「孝行息子をもって、幸せですね」
 歩けなくなって彼に背負ってもらう私に、近所の人がそう声をかけるだろう。そのとき私は、今日の自分のように「息子じゃないです。旦那です」といえるだろうか。いや、きっと私は「そう、親孝行な息子です」と言ってしまうだろう。本当のことをいって笑い飛ばされるよりは、勘違いされていたほうが気が楽だ。

 でもまあ、そんなことばかり考えていてもしょうがない。いくら考えたって、二人の年の差は全然縮まらないのだ。つまるところ、「生きていれば、なんとかなる」。一緒にいて楽しい者同士が、こうしてひとつ屋根の下で暮らせるのだ。
「みーちゅん、大きくなってもうちを出るなよ」
「えー。ぼくだって好きな子と結婚して所帯もちたいよ」
「そんなの、まったく問題なし。ここでみんなで暮らしましょう」
「えー! いやだー! 僕にも新婚時代を過ごす権利というものが」
「だいじょうぶ。その前に彼女ができないから」
 抵抗する息子を、からかい続ける彼。息子にとっての彼と、彼にとっての息子と、私にとっての彼と、息子にとっての私。どこから見ても、不思議に同じ距離でつながっている私たち。夫婦とか親子とかいう形(パターン)になれなくても、これはこれでいいのかもしれない。それが、たとえ今一瞬のバランスだったとしても。


●あとがき
 「恥ずかしかった」話ではなく、今まさに「恥ずかしい」話であります。こうやって文字にすることで、なし崩しに「アリ」にしてしまおうと思う私の気持ちが、実にあさましく、恥ずかしい。

松田聖子世代★緊急レポート

「やっぱり聖子ちゃんはやってくれました!」
 テレビで某主婦が頬を上気させながらいったセリフだ。
「20世紀の最後を飾る話題がキムタクの結婚なんてつまんない。やっぱり聖子ちゃんで締めくくってもらわなくちゃ!」
 当のご本人が「やっぱりわたしが締めくくらなくちゃ」と思ったかどうかは別として、世間の評価はどれも似たりよったりだ。「松田聖子は、見事に自身をプロデュースしきっている」…だれだったかテレビでそうコメントしていたが、彼女の生き様をハタで見ていると、たしかにそんな風に見える。世間の期待をすべて体現してやろうとでもいうような、彼女の人生。今回の報道は、彼女が二度目の離婚をするという内容であった。その影には、我々の世代に懐かしい原田真二の名前もあった。ダブル不倫だとか恋多き女だとかいわれつつも、多くの報道陣の前で圧倒的なオーラを放ちながら「夫婦の夢の実現のため」と言い切る彼女。

 実は私、普段から彼女に非常にお世話になっている。「今、おいくつなんですか」「ご結婚なさっているんですか」「お子さんもいらっしゃるんですよね」などと質問されるたび、私はこう答えている。「松田聖子さんと同い年なんです。この年に生まれた女性はみんな彼女みたいな人生を送っているんですよ。だから私もね、いろいろありまして…」。 こういうと、なぜかみなさんとても納得してくださるのだ。それはまるで、「そーか、松田聖子と同い年ならしょうがないな」とでもいうような、根拠があってないような納得の仕方である。その後、これまでの自分の遍歴を語り始めるのだが、その内容がどれほど波乱万丈であれ、「でもまあ、松田さんと比べたらおとなしいものですよね」という結論に落ち着く。不思議なものである。
 さて、本当に松田聖子と同い年の女性がみんな彼女のごとくドラマティックな人生を送っているかというと、決してそんなことはない。同級生の友だちを思い浮かべても、平和な家庭の主婦として穏やかに過ごしている人のほうが多いと思う。反面、この業界に入って出会った素敵な女性は、そろいも揃ってなぜか私と同い年で、しかもほとんどの方が離婚経験者である。「三度目のダンナはね」なんて会話も、ごく普通に交わされている。彼女たちの口から、「もうそろそろ 40なんだから落ち着かなくちゃね」とか「走りつづけてきてから、そろそろ休みたいわ」なんて言葉は一切発せられない。いつも気持ちは現役であり、それは仕事だけでなく恋愛においても同じだ。だから、私たちにとって松田聖子の言動はごくフツーであり、コメントがあるとしても「もうちょっとうまくやればいいのにね」程度のものである。「あーやって目立つ行動をとるから、マスコミにいじめられるんだよね」。

 たしかに、彼女の行動はあまりにも無謀である。「今わたしは恋をしてるのよ」という瞳のまま「いえ、彼に特別な感情はもっておりません」といっても、それはまるで口のまわりにチョコをつけたまま「チョコなんて食べてないよ」とウソをつく子供のようで、見てるこちらが恥ずかしくなる。ウソをつくならもっと上手につきなよ!と叫びたくなる。「ホントは夫から気持ちが離れてしまったのよ。ドキドキしない男と暮らすなんて嫌なのよ。ドキドキさせてくれる男がいるというのに、その人に手を触れないなんてとても無理よ。わたしは彼を自分のものにしたいのよ」と、彼女の顔にはそうしっかり書かれている。しかし、世間の常識やら彼女の愛娘であるさやかちゃんやらを守らなくてはならないため、彼女ホントの気持ちがいえない。だから、そういう顔のまま「二人の夢を実現させるための第一歩です」と、よくわからない理由で離婚を説明しようとする。そんな彼女の姿を見ていると、「もういいよ、あなたはあなたなんだから」と肩を抱いてあげたくなる。抑えきれない感情があるなら、それに従って生きればいいよ。そういって、彼女の中の不釣合いなバランスをとっぱらってあげたくなる。

 さて、さきほど「私は松田聖子さんと同い年だから、波乱万丈な生き方ができる」という意味合いの文章を書いてしまったが、これがすべて事実だとはいえない。たしかに私の人生は、決して順風満帆ではなかった。別居から離婚、ゼロからの自立、シングルマザー時代、そして今と、山あり谷あり谷あり谷ありな道を歩んできた。現在、縁あって二人目のパートナーを得て、もう一度山を迎えようとしている。一見したところ「ほぼ松田聖子な人生」に見えなくもないが、実は中身が全然違う。わたしは彼女のように雄々しくないので、ひとつ段階を越えるたびに非常に消耗し、何度も倒れそうになり、いろんな人に手をひいてもらいながらやっとここまでたどり着いた。泣いて、心配されて、人のお荷物になって、そこからようよう這い上がって、少しだけ歩き出して、また転んで泣いたりしている。一言でいうと、すごくかっこ悪い。そんな自分がイヤだし、どうせやるなら彼女のように「あれが松田聖子というブランドだ」とまでいわれるようになればいいと思うのだが、とてもそんなバイタリティは持ち合わせていない。

 昨日の夜、昔の知人に電話で再婚の話をした。「まあ、まあ、まあ!」を連発する彼女に、なぜかやたらと「ごめんなさいね」とお断りをいれる私。「なにがゴメンナサイなのよ、喜んでいればいいんじゃないの。おめでたいことでしょ」といわれても、ただひたすらに申し訳なく思ってしまう私であった。誰に謝っているのか、自分でもよくわからない。ただなんとなくきまりが悪く、できればその話題に触らずにいてくれと一心に願うばかりである。心の奥に残るわだかまり、申し訳ない気持ち、いろんなものを失ってしまったような気分は、なかなかきれいに消えてくれない。いったいこれはなんだろうと、電話を切った後、しばらく考えこんでしまった。わたしは何にひっかかり、松田聖子のように堂々と自分の人生を歩めないのだろう。

 その時、ある言葉を思い出した。高校時代、思ったことを徒然なるままに書き綴ったノートがある。そのノートの中に、その言葉があった。書いたのは、ほかならぬ高校時代のわたしである。
「尾長鳥のしっぽのごとく、長々しく続く想い。私は、自分が経験したすべてを引きずって生きる。一生が終わる頃には、どれほど長い尾となっているだろう」
 あまりにも抽象的すぎてわかりにくい言葉ではあるが、この言葉を書いた時の気持ちを私は覚えている。恋をしてその恋が終わり、嘆き悲しみつつも次の恋に向かう自分。その時私は、前の恋を忘れてはいなかった。前の彼との思い出を思い出しながら、別の人と新しい恋を育もうとしている。しかし、この新しい恋も、いつか昔の恋と同じ運命をたどると知っている…。この言葉は、変わりやすい自分の心と時間を呪い、せめてすべてはっきり覚えていようと心に決めて書いたものである。そう、これは強い呪いの言葉なのだ。

 その言葉通り、わたしはその後に経験したすべての出会いについて、しっかり記憶している。前の結婚のこと、子供が生まれた時の彼の表情、幸せだった家族の時間、私が家を出る時の子供たちの表情…。においや風、音に至るまで、しっかりと覚えている。覚えているからこそ、失われた時間が悲しい、切ない、つらいと思う。幸せだと思うその瞬間、頭の中にいくつもの時間と顔がよぎり、意味もなく立ち止まってしまうこともある。そんな私のためらいを、一緒に立ち止まって待っていてくれる彼でなくては、おそらく新しい出発は不可能であった。「いつまでも昔のことを引きずってメソメソするような女はお断りだ」という人なら、とっくの昔に私のそばから離れていっただろう。

 松田聖子、アナタはどうなんだろう。いつか彼女に会う機会があれば、ぜひ彼女に聞いてみたいと思う。あなたもやっぱり、その長い尾にすべての想いを引きずっているの? 切なくて立ち止まりそうになるけれど、その想いを振り切って次の自分を演じてきたの?
 彼女はこういうかもしれない。
「わたしに見えているのは、今。いつも身軽に生きている。そんな尾なんて、人に迷惑をかけるだけで、何の役にも立ちはしない。さっさと切ってしまいなさいな」。
 …実はこれ、もう一人の私の声でもあるのだ。


●あとがき
 なかなか文章が書けなくて、熊切さんに非常にご迷惑をおかけしました。ここにお詫び申し上げます。お待ちいだたいて、どうもありがとうございました。松田聖子さんのおかげで、突然やる気がモリモリとわいてきた次第です。松田聖子さん、ホントにいつもどうもありがとう!

真花のショートラブストーリー 番外編 クラウンの夢

 高校3年の夏だから、もう20年も前の話。私はクラウンと運命的に出会った。あのとき彼に会わなかったら、私は今頃生きていなかったのだ。  

 その頃、私は恋をしていた。今から思い出してもあれは本物だったと思うほど、激しく苦しい恋だった。その人のことを想うだけで、一日が過ぎていた。その人の影を求めて、行きそうな場所を巡り、人の群れの中から彼の姿を探し、出会ったら息が止まるほど胸が熱くなり、声をかけられたらその場で倒れそうなほどだった。彼にしてみれば、私は気楽に話せる後輩のひとりでしかなかったが、私の想いはそんなもんじゃない。この恋のためなら何でも捨てる覚悟だった。なぜこれほど彼が好きなのか、自分でも訳がわからなかったけれど。

 彼はその頃、ある女性を愛し、苦しんでいた。彼女のことが好きでたまらなくて、そんな気持ちを私に打ち明けた。毎日、彼はこの思いの苦しさを私にぶつけていた。そんな話には正直耳をふさぎたかったけれど、それよりも彼の側にいたいという気持ちのほうが強く、私は毎日彼の告白をしっかり受け止めていた。「おまえはいいよ。ほんとうれしいよ、おまえみたいなヤツがいてくれて」。彼は口癖のように、私に言った。「帰りは送っていくから。一緒に帰ろう」。彼は、わざわざ遠回りして、駅の反対側にある私の家まで送っていってくれた。家の前で、別れがたくてくだらない話をする彼。横顔の向こうに、背の高い木が見えた。その木の枝に引っかかるように、細くきれいな三日月が見えた。額にかかる長い髪と、木の向こうにある細く長い三日月。「よく似合う」と思った。  

 春が過ぎ、夏休みが来て、受験生はみんな図書館で勉強に励むようになった。一浪した先輩は、わたしと一緒に図書館で毎日勉強していた。勉強に飽きると、わたしを誘ってジュースを飲みに2階に下りる。しかし、その日フロアは人であふれていた。「しゃーない。外まで買いに行くか」。先輩に続き、図書館を出た。外は小雨が降っていた。向かいのスーパーに走りこむ先輩。スーパーの前のちょっとした広場に子供用の遊び場があって、そこには小さな木馬が3つ並んでいた。「ちょっと乗らへん?」先輩は、ふざけて木馬にまたがった。ペンキのはげた木馬は、ギーギーという音を立てて揺れ始めた。「おまえも乗れや。こういうのも、ええで」。先輩にいわれ、彼の隣にある木馬に座る。並んで小雨を見ながら、ふたりとも黙っていた。彼は、小雨の中に彼女の面影を描いているのかもしれない。泣きそうになりながら、わたしはギーギーと木馬を揺らした。先輩はそのままずっと、雨を見つめていた。  

 彼女を好きな彼。彼を好きな私。堂々巡りのメリーゴーランド。絶対に誰もつかまらないのに、回るのをやめない木馬たち。苦しくて、毎日起きるのも寝るのも歩くのも食事するのも苦しくて、わたしは段々やせていった。ちょうと同じ頃。中学時代の同級生がビルから飛び降りて死んだ。彼女のお葬式に参列し、ああ私も彼女と同じだと思った。彼から離れることもできなくて、でも側にいるのもツラいなら、この世からいなくなってしまおう。夕方、山に続く道をフラフラと歩いた。遠くでカラスが鳴いていた。見上げると、細い三日月が見えた。夕方の空に浮かぶ、白々しい月。彼の横顔に似合う、細い月。やっぱりもう一度彼に会いたい…。  

 その夜、泣き疲れて眠った私は、夢の中で抱きしめられていた。あたたかい、優しい腕。振り返ると、そこには一人のクラウンがいた。大きな大きなクラウンだった。静かに笑っていた。「だいじょうぶだから」と、クラウンはいった。「ぼくがずっと、そばにいるよ」。彼は優しくわたしの手を取り、歩き始めた。町には、お祭りみたいに人があふれていた。その中を、にこにこ幸せそうに歩く彼。死にたいと思っていたはずなのに、なぜか私も幸せな気持ちで彼と手をつないで歩いていた。町の人はみな笑顔で、わたしたちを祝福してくれているようだった。「よかったね」「幸せだね」「大丈夫だね」…。人々の声は続く。「ありがとう」「ありがとう」「だいじょうぶ」…私が答えている。幸せそうな私の顔を、もうひとりの私が見ていた。「よかった、これで私、死ななくてもいいんだ…」。 数ヶ月ぶりに、幸せな気持ちで目覚めた朝。夢の中のクラウンを思い出しながら、「ああ、そうだ」と思った。「わたしを待っている彼が、きっとどこかにいる」。娘らしい「白馬の王子様」的発想だが、それで私は救われた。先輩は、あのクラウンさんじゃない。  

 午後、ふと思い立っていつもと違う道を歩いた。中学時代の友だちが住む住宅街に続く道。懐かしかった。見知らぬ店もたくさんあった。一軒一軒のぞきながら、ゆっくりと歩いた。横断歩道を渡り、小さな店が並ぶ通りをいくと、そこに一際かわいい店があった。「キャラクターグッズの店かなあ」。キャラクターグッズが好きではなく、あまりこの手の店には入ったことのない私だが、この時はなぜか店の扉を開けた。中には、キャラクターグッズではなく、小さくてかわいい小物がたくさん並べてあった。ひとつひとつ手にとって楽しみながら進んでいくと、奥に異質な雰囲気を醸しだす空間を発見。そこには、たくさんのクラウンが並んでいた。「クラウン…」。昨夜見た夢を思い出す。あまりにも不思議な偶然だ。手前にあった、小さな箱のようなオルゴールを手にとる。正面には、クラウンの顔が大きく描いてあった。のぞきこんだ途端、息をのんだ。そこには、夢の中でわたしを抱きしめた彼がいた。信じられない…。絵の中にいる彼に、心の中で声をかけた。「あなたなの? こんなところで、待っていてくれたの?」。  

 そのとき買ったオルゴールは、その後20年に渡って私を支え続けることになる。また恋をして大学を辞めて結婚した後も。その後、悲しい行き違いがあって大好きだった彼と別れてしまうことになったときも。また、自分より大切なはずの子供たちと離れて暮らさなくてはならなくなったときも…。もちろん今も、わたしの隣には彼がいる。この後も、ずっとそれは変わらない。そして彼は相変わらず、「だいじょうぶだよ」と、「ぼくがずっとそばにいるからね」と声をかけてくれるのだ。


 自分のホームページを作ると決めたとき、最初に作ったのがクラウンのコレクションのページでした。オルゴールを買った後、このクラウンの作者が「むらいこうじ」さんという方だと知り、「むらいこうじ」という名のついたグッズはかなり買い集めていました。このコレクションを公開し、同好の士をさがそうと思ったのです。HPを開設して3年。「むらいこうじさんの公式HPができました」とDORAさんからメールをいただきました。さっそく拝見させてもらい、感無量。あのとき、彼と出会ったからこそ、今の私があるのです。誰かにそう伝えたくて、ペンをとらせていただきました。