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二人暮らし(2)

●木魂の棲む部屋

 編集という仕事上、帰宅はどうしても夜中になる。毎晩ひとりでコンビニ弁当を食べていた息子がついに音を上げ、「たまにはお母さんの手作りご飯が食べたいなあ…」と愚痴るようになった。私はすっかり丸くなってしまった彼の顔をつくづく眺め、これ以上彼にコンビニ弁当を与えるのは危険であると判断し、退社を決意した。収入はかなり減るけれど、これからはまたフリーライターとしてやっていくつもりだ。なあに、親子二人質素に暮らせばどうにかなるさ。いざとなれば、隣の豆腐屋から「おから」をもらって三食いただけばいい。そうすれば息子の顔に無数に浮かぶニキビだって、きれいに治るに違いない。
 という訳で、これからは自宅で仕事をすることになった。いわゆる「SOHO」というやつ。しかし、それにはちょっとした準備期間が必要だ。というのも、これまで会社に逃避しつつ見て見ぬふりしてきた家の中が、全くもって耐え難い状態だったからだ。一例をあげよう。玄関わきの洗濯機コーナーには、息子の上靴が真っ黒なまま、すでに数週間放置されていた。お風呂の排水溝には抜けた髪の毛がつまり、水が流れなくなっていた。食卓の上には新聞と雑誌、学校のプリントが山積みされ、わずかに残ったスペースで食事をとるといった状態。これからずっとこの家の中で過ごすとなれば、もうこの状況に目をつぶる訳にはいかない。一念発起、ここは覚悟を決めて模様替えを兼ねた大掃除をしようと決めた。

 話は変わるが、わたしの母親はちょっとしたスーパーウーマンである。私を育てるかたわら、常に仕事をしていた。40を過ぎた頃から書道を始めて教室をもつまでに腕をあげ、一番ハードな時期は一週間のうちに4〜5日間自宅で書道教室を開いていた。朝から晩まで書道を教え、夜はお手本を書いたり自分の作品を仕上げたりで徹夜することもよくあった。そんな状況ながら、家の中が乱れたことが一度もなかった。いつもきちんと片付けてあり、ちりひとつ落ちていない。トイレやお風呂、台所などの水回りも完璧で、ステンレスはいつもピカピカに磨きあげられていた。また、昔堅気の父が外食や出来合いのお惣菜を嫌がるため、食事はいつも彼女の手料理だった。これがまた美味い! 決して身びいきでいっているのではなく、彼女の手料理を食べた人はみなその味を絶賛した。中には、料理を目当てにしょっちゅう遊びにくる人もいたほどである。
 こんな母親を持つと、子供は苦労する。子供にとって親とは一番身近なお手本であり、標準(スタンダード)である。つまり、私的には「仕事をしていても家の中はいつもきちんと整っていて、食事はいつも手料理かつ美味しくなくてはならない」というのが「可」と評価され、それ以下は「不可」として認識されてしまうのだ。これは苦しい。だって、どうがんばって「不可」なんだもん。という訳で、私は日々自己嫌悪に苛まれ続けている。ギブアップする気はないが、いつの日か私が「可」になれる日がくるような気もしない。

 話を戻そう。さて、覚悟を決めた私は、一日予定を空けて完璧に家の中を片付けることにした。ゴミ袋を2セット用意し、いらないものはどんどん捨てる。部屋の家具を動かして、隅の埃も全部掃除機で吸い上げる。水回りは磨く。ついでに衣替えも済ませ、必要なものはクリーニングに出す。あちらこちらに散らばっていたものは全部一箇所に集め、100円ショップで買ってきたプラスティックのカゴに分類して収納する。以上全て完了した頃には、すっかり日が暮れていた。
 最後に、きれいになったお風呂につかって自分についた垢を落とす。一番幸せな瞬間である。お風呂から出たらビールでも飲むか…と、しみじみ至福を味わっているその瞬間。「おかあさん、ただいま〜」
 息子が学校から帰ってきた。瞬間、悪寒が走った。彼にはホントにホントに申し訳ないけれど、この時わたしには真実息子を「バイキンマン」として認識したらしい。咄嗟に出た言葉が、「靴下は玄関で脱いで!できるだけ周りに触らず、自分の部屋に行って!」だった。息子はかなりムッとしたらしく、「別に今日特別汚れるようなことはしてないけど…」と反論する。「ん〜それは知ってるけど…。今日実は大掃除したのよね。だから、できるだけ汚したくない…」「汚したくないってあんた、別に俺バイキンの塊じゃないんだし…」。不満そうながら、息子はしぶしぶ靴下を脱いで洗濯カゴに入れた。

 しかし、至福の時は一晩で終わった。翌朝、息子は困り果てた声で部屋から出てきた。
「おかあさん、なんか滅茶苦茶かゆいんだけど…」
 彼の顔を見ると、米粒大の湿疹があちこちにできていた。虫にでも刺されたかと思ったが、季節は冬。蚊なんて飛んでいる訳がない。Tシャツをめくってみると、顔以上に赤いブツブツが広がっている。
「なにこれ…? ジンマシン? なにか悪いものでも食べた?」
「別になにも…。おかあさんだって同じもの食べてるし、食べ物じゃないと思うよ」
「じゃあ何だろう? アレルギー? …とにかくカユそうね。薬塗らなくちゃ」
 この家では、なにかというとオロナイン軟膏かマキロンが登場する。とりあえず赤いブツブツの上にまんべんなくオロナインを塗った。しばらく様子を見たが、一向にブツブツが消える気配はない。しょうがないので学校をお休みさせ、薬局に行って薬をもらうことにした。
 薬局のおねえさんは、息子をひと目見て「アレルギー性のジンマシンですね。これを塗ってください」とショーケースの中から一本の軟膏を取り出した。
「今日は一日、家で安静にしてください」
「はい…。ところで原因はなんでしょうか? 食べ物ですか?」
「食べ物にアレルギーがあるのであればそうでしょうが…正式に診察して調べてみないとなんともいえません。それより、ホコリかダニのアレルギーである可能性が高いと思います」
 少なからずショックを受けた。数日前までなら納得するが、今の私の家はどこもかしこもピカピカなのだ。それがなぜ、今になってホコリやらアレルギーやらに攻めてこられなくちゃいけないのだ。
「どうもありがとうございました。お大事に〜」
 おねえさんの声に見送られ、わたしと息子は家路についた。それにしても、ダニやホコリが原因だとしたら、家の中でじっとしていろというのはちょっと矛盾している。いわば、病原菌の中に飛び込むようなもの。

「とにかく一番きれいな部屋に布団敷いてあげるから、そこで寝てなさい」
 私は息子を居間に座らせ、息子の部屋に彼の布団を取りに行った。
「…!!!!!!!」
 息子の部屋に入った私は、一瞬言葉を失った。頭の中は真っ白になり、咄嗟にわたしは部屋の扉を閉めた。原始レベルの恐怖が、私の理性を占領していた。
「どうしたの?」
 無邪気な息子の顔。わたしは彼の顔をまじまじ見つめてしまった。言葉をまとめて説明するには、しばらく時間が必要だった。
「あ…あの部屋。ちょっと何、あれ。どうやってあの部屋に入ればいいの?」
「ん? 普通に扉を開けて…」
「は、入れないってば。絶対無理。だってだって…!!」
 だってそこにはジャングルが広がっていたのだ。うっそうとした森の中、切り株の上に木魂が座ってカラカラと首を回していたのだ。木の葉の隙間から一筋差し込む太陽の光は、薄モヤの中に浮かぶ不思議な怪物たちをシルエットにして浮き上がらせていた。
「あんたの部屋、いつからあんな状態な訳?」
「へ? …ずっと前からあんなんだけど…。普通だったでしょ? どっか変?」
 深く息を吸った。とにかく酸素は重要だ。もう一度だけ、部屋の中を確かめてみよう。私は意を決して、えいやっと扉を開けた。今度は覚悟の上なので、前よりしっかりと部屋の中が観察できる。果たしてそこにジャングルはなく、代わりに足の踏み場もないほど散らかった男の子の部屋が姿をあらわした。遮光カーテンは閉め切られていたが、隙間から太陽の光が射しこんでいる。薄モヤのように見えたのは、扉を開けたことで空気が流れ込み、ふわっと舞い上がった埃であったということも確認できた。そのとたん、私の勇気は急速に萎えた。
「おかあさん…? だいじょうぶ? 自分で布団とってこようか?」
 息子がわたしを心配そうに見る。彼はこの部屋、なんとも思っていないらしい。
「布団? 布団ってどこにあるの?」
「部屋の真ん中に敷きっぱなしになってるでしょ」
 部屋の真ん中といえば、さっき木魂が切り株の上に座っていたところだ。目をこすってじっと見てみると、確かにそこには布団があった。切り株に見えたのは彼の枕らしく、その上には誰もいない。恐怖が見せた、目の錯覚だったか…。ともかく、ヤツをこの布団で寝かせるわけにはいかない。いかにもダニが住んでいそうな布団に。
「ダメダメ。この布団で寝たら、もっとかゆくなっちゃう。いいから君は、私の布団で寝てなさい。布団は全部洗濯します」「わかった。じゃ、パジャマを取って」
 パジャマ? …ぐるっと部屋を見回すと、部屋の隅にグレーのジャージが一式落ちていた。まだ部屋の中に足を踏み入れる勇気のない私は、30センチの定規を使って器用にジャージをつまみあげる。そーっとジャージを引き寄せ、そのまま彼に手渡そうとした。
「あ、それそれ。ありがと…それにしても、なんで定規で取るん」
 むっとする息子。ジャージを広げると、中から丸めたティッシュが落ちてきた。なぜか赤く染まっている。
「昨日の夜、鼻血が出たんだ」
 速攻でジャージを彼から取り上げる。代わりに私のジャージを彼に与え、それを着るように命じた。
「あんたの部屋を掃除してくる」
 決然と言いはなつ。勢いで彼の部屋に入り、カーテンと窓を盛大に開けた。うっそうとしたジャングルは、真実の姿に戻った。そこには、埃だらけのコミックの山と、鼻血で汚れた布団と、衣装ケースからなだれ落ちた服の吹き溜まりと、遊戯王&ポケモンカードがはみだしたダンボール箱と、各種ゲーム端末が散らばっていた。
 再び、大掃除である。私はほとんど竜王に立ち向かう勇者のような心持ちで、ダスキンとごみ袋と掃除機を持って息子の部屋に挑んだ。時折隣の部屋から、テレビを見て笑っているらしい息子の明るい声が聞こえてくる。悔しくて、切なくて、悲しくて、泣きたくなる。なんだってあいつはこんな部屋で平気で暮らしていられたんだろうとか、大体ヤツは昔からこうだったとか、しょうもない繰言が頭の中でグルグル回る。そういえばヤツは、ええ年こいて「魔法陣グルグル」なんていうコミックまで買っているのだ。だからこんな訳わからない部屋になっちゃうんだ。だから木魂まで首回しちゃうんだ。だからジンマシンできちゃうんだ…。
 部屋を片付け、埃を取り、布団を干し、シーツ類をまとめて洗濯機につっこむ。その間、何度となく意識を失いかける。しかし、どんな部屋でも半日かければどうにか片付くものらしい。夕方には、人が暮らせるだけの環境が整った。
 最後の仕上げに引出しからあふれている服をたたんでしまおうと、グレーのトレーナーに手をかけた瞬間。
「!」
 それはグレーのトレーナーなんかじゃなかった。卒業式に着たという、真っ白なセーターの末路。あまりの変わり様に、わたしは言葉を失った。全身鳥肌が立つ。
「…ふ、ダメだ。これを見逃すわけにはいかない…」
 わたしは、旅行用の大きなカバンを3つ準備した。こうなったら、最後までやるっきゃない。引き出しに入っていた服、下着、セーター、シャツなどすべて取り出し、それをカバンに詰め込んだ。
「ちょっと手伝って」
 テレビを見て笑っている息子は、「え、僕今日は安静なんでしょ」と他人顔。
「いいから、こっち手伝いなさい。あんたのジンマシンのなぞはすべて解けたんだから」 母親の尋常でない様子におじけづき、彼は素直に渡されたカバンを持った。
「これからあんたの服をぜ〜んぶ洗います。といっても干す場所ないので、これからコインランドリーにこれをもっていきます。手伝いなさい」
 さすが男の子で、四季全部の服を合わせても旅行カバン3つ分程度しかない。それを二人でよいしょよいしょと運び、駅前のコインランドリーの洗濯機を全部占領して一気に洗濯した。金額にして2百円×6台分。その後、乾燥機を全部占領して全部の洗濯物を一気に乾かした。こちらは3百円×6台分。しめて三千円の出費だ。痛いといえばそうとう痛いが、これで彼の部屋がまっとうになるなら安いもんだ。
 乾燥機が止まると、親子はほかほかに温まった服をカバンを持ち、夕焼けを背に家路についた。
「はあ…つかれた。昨日から私、こんなんばっかり」
「大変だったでしょ。俺の部屋きれいにするのなんて人間には不可能だし」
 息子はあっけらかんと笑う。
「そういえば、あんたの部屋"木魂"がいたよ」
「あ、そうそう。あいついるんだよね。なんか気に入ってるみたい。昔、トトロもいたんだけどね。ここんとこちょっと部屋がきれいになってきたから、出てこなくなっちゃったな」
 ダメだ。説教しようかと思ったけれど、あきらめた。大体今の私に、そんなパワーなんか残っちゃいない。あったとしても、それがヤツに通用するかどうかは別問題である。
「これ全部たたんで引き出しにしまうの、手伝ってよね」
「えー面倒くさい。その辺にほかっておけばいいよー」
「それはダメ。またすぐにこうやって全部洗わなくちゃいけなくなる。こんな思い、もう二度としたくない!」
 知ってか知らずか、息子は話題を変える。話をはぐらかすのは、ヤツの得意技だ。
「ところでさ、俺のジンマシン治ってよかったよね。でもなんでジンマシンなんか出たんだろうね」
 どこまでもトボケたヤツである。


◆あとがき
 今回は「とってもかゆい話」です。お食事中の方は、ごらんにならないことをおすすめします。それにしても、男の子を育てているといろんな目に遭います。最近彼はちょっぴり「アダルティ」な方面に興味津々なようで…。