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人妻日記(5)

■恋をすれば

 友が、離婚するという。仲のよかった夫婦なだけに、にわかには信じられない。
「なんでまた!」
「ふふ」
 友は、いつになく低い、色気のある声で笑った。
「しょうがないでしょ。恋しちゃったんだから」
 瞬間、返す言葉が見つからない。いつ? どこで? なんで? 聞きたいことは山ほどあるが、私は芸能レポーターではないので、どうもプライドが邪魔して質問ができない。下世話な話になってしまい、自分が鼻息荒くなってしまうのが恥ずかしいのだ。わざとすまして紅茶を飲む。頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだ。
「あれ、驚かないの」
 彼女は私の反応を楽しむように、こちらを覗き込む。くそう、このままでは気おされる。
「で、なに。あんた家を出て、いくとこあるの」
「そりゃ、彼のとこに行くわよ。彼ね、仕事をやめてくれたの。私と一緒に、どっか遠くに引っ越して、人生やりなおしてくれるって」
 窓の外に目をやる彼女。どうやら、その彼の姿を浮かべているらしい。やれやれ。
「彼ね、八つ年下なんだ」
 急いで逆算する。30−8は……えっと……うそ! 22才!
「就職したばかりで、ほんとかわいそうなことになっちゃって」
 22才ってことは、あなた、まだ学生に近いものがあるじゃないですか。信じられない。そんなおぼっちゃんに、人生託せるっていうのかこの女は。
「どうやって生活するのよ、そんな若い子、生活力あるの」
「あたしが働くからいいの」
 それって、世間ではつばめっていいません?
「どっちが働いて、どっちが家庭守ってもいいじゃない。彼は家で、私を待っていてくれればいいの」
 不思議に、彼女の言葉に悲壮感はなかった。心からこの成り行きを望んでいたような、彼女の強い意志を感じる。
「ご主人にしてみれば、ショックよねえ。よく許してくれたわね」
「あいつにも女がいたのよ」
「……え。うそみたい。あんたたち、仲良かったじゃないの」
「そうね。彼にしたって、まさかこうなるなんて思わなかったでしょうね。ほんの遊びのつもりで会社の若い子と浮気して、まあそれがアダになって」
「仕返しのつもりで浮気したの?」
「とんでもない! だって、私が彼と付き合いはじめたのとほとんど同時だったのよ、彼の浮気。つまり、自然に双方から離れていったということになるわね」
 自然の成り行きで、浮気ってするものなんだろーか。私には到底うかがい知れない世界だった。うかがい知ろうとも思わないけど。
「というわけで、私引っ越すから。あんたともしばらくあえなくなるわね。住むところが決まったら、連絡するから」
 伝票をもって立ち上がろうとする彼女から、すばやく伝票を奪い返す。
「これからの暮らしがあるんだから。ここは私がおごる」
「そう? 悪いわね」
 よっとバッグを肩にひっかけ、ひっこり笑って手を振って出ていった彼女は、まるで映画の女優のように堂々としていた。奥様連中と喫茶店でモーニングを食べながら、近所のうわさ話をして半日を過ごしていた彼女よりは、ずっとかっこよかった。
「あれはあれで、正解なんだろうか」
 割り切れないまま、カップの底に残った紅茶を飲み干した。
 ふと自分の隣の席を見た、夕食の買い物袋が、ずっしりとおいてある。あたしには、帰って夕食を作るという仕事が残っている。
「わあ、もう5時過ぎちゃってるじゃん。急がないと、子どもが家に帰って来る!」
 慌てて店を飛び出す私。ちょっとだけ彼女をうらやましく思わないでもないけれど、年下の彼と第二の人生を歩き出すエネルギーなんて私にはないし、第一こんな私に恋をする男が現れるなんてこともありそうにない。
 信号を待つ自分の姿をショーウインドウに映し、そのかっこ悪さに思わず目をそむけてしまう。だけど、子どもは「うちのかあさんは大塚寧々にそっくりだ」とか言ってくれるんだし、ま、それはそれでそれなりに。


■マミーちゃんと復縁した午後

「おかあさん、だっこは一日五回までね」
「けち〜。もうちょっとたくさんにしてよ」
「だあめ。私だって忙しいんだからね」
 娘にやさしく、しかしきっぱりと宣言されてしまった。そりゃそうだ。この娘ももう3年生になる。いくらからだが小さいとはいえ、心は着実に成長を進めている。親としてはむしろ、この彼女の姿を喜ばしく思わなくてはいけないのだろう。しかし、私はしょげかえった。私はもう、このぷよぷよのふわふわの小さな体を、思う存分抱きしめることができなくなるのだ。

 部屋のすみでほこりをかぶっていたぬいぐるみに気がついたのは、その娘だった。
「おかあさんの大切なぬいぐるみだったんでしょ」
 スヌーピーによく似た顔とボディを持ちながら純国産種である彼は、小学校時代、一人っ子である私が寂しがらないよう、親から眠りの友として与えられたものだった。彼は、マミーちゃんと名づけられた。文字通り、親代わりである。
 抱きしめると、ふわっと気持ちよかった。一人っ子ではあるが、決して甘やかすことがなかった両親の元で、私はきっと抱きしめられることに飢えていたのだと思う。その日から、私は彼との抱擁におぼれていった。夜毎彼を抱きしめて眠る、熱い日々。彼のつぶらな瞳は私の姿だけを映し、彼の長い耳は私の声だけを聞き、彼の小さな口は私のキスだけを受けた。当たり前だ。なにしろ彼には選ぶ権利がない……。
 この蜜月は、本物の人間を抱きしめて眠るようになった時まで……つまり結婚するまで続いた。だっこは、やっぱり本物の人間に限るとわかった時点で、彼はあっさりお払い箱となった。彼はベッドの上からたんすの上へと住処を変え、すでに十数年がすぎていた。

 さて、その彼だ。久しぶりにしげしげと眺めてみると、すっかりその風貌を変えていた。白かった体は、ほこりにまみれてどす黒くなっている。おしりの縫い目がほつれて、中のつめものがはみ出している。一時、あれほど私の渇きをいやしてくれたこの子だったのに、今やこのていたらく。人の情というものは、かくも変わりやすいもの……と、自分の薄情を棚にあげる。

「かわいそうに。こんなにくたびれちゃって」
「洗ってあげればいいじゃん。お風呂にいれてあげよーよ」
 娘の提案により、昨日のお風呂の残り湯に洗剤を混ぜ、彼をつけこんだ。彼は、いったん底に沈み、再び川に流れる土左衛門状態でぷくーっと浮き上がった。どず黒い体とその状況は、かなりグロテスクに見えなくもなかった。しかも、そんな彼を「このままではきれいにならないから」と、何度も底に沈める私。ちょっとサディスティックな快感に酔う。ひひひひひ……。
「あ、あのあのあの」
 娘が私の笑顔におびえ、後ずさる。
「あ、あたし友達と遊んでくるから!」
 早々に逃げ出す娘。薄情なのは、母親譲りだからしょうがない。
 数十分入浴をした彼は、その後ベランダのかごの中にいれられた。ぽかぽか春の陽気の中、彼はのんびりと横たわった。存外幸せそうに見えた。ほこりをかぶってすさんで見えた彼の大きな目も、すがすがしく澄んでいた。
「娘がね、私から自立しようとしているの。またあんたのお世話になっていいかしら」
 ベランダで彼の隣に座り、そんな風に語りかけながら、久しぶりに彼としっぽり過ごした午後だった。


◆執筆者後記
 春休み。「子どもが家にいるなんて、うっとおしいわよねえ」という奥様方が多い中、「さびしくなくていい」という私は異色な存在のよう。が、4月新学期が始まって、子どもは再び学校へ戻ってしまった。亭主は毎日会社だし。そして私は、ワイドショーをつけっぱなしにする日々へと舞い戻ることになる。はぁ。

コメント (2)

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