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かなしい気持ち

なにがそれほどかなしいのか、自分でもよくわからないときがある。たとえば音楽。店の中に流れる曲の1フレーズを聴いたとき、頭の先から足の先まで一瞬なにかが駆け抜ける。その瞬間は、まだわからない。今わたしが感じた感覚、これがなんなのかを理解するには、さらに別の記憶を呼び覚ますという作業が必要になる。しかし、「気持ち」はおかまいなしだ。理由などなく、ただただかなしい。風を思い出し、温度を思い出し、声を思い出し、立ち止まって振り返る。


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 インターネットとは不思議な場所で、世界中の人が自由に出入りしているらしい。足跡もウワサも見つからない「あの人」に出会うため、私はあるサービスを利用している。

ウェブ同好会「この指とまれ」(http://yubitoma.sphere.ne.jp/)

 このサイトは、自分のいた地域、学校に名前を登録し、同じ時代に同じ場所にいた人と出会うことを目的として作られた。たとえば、わたしは昔「富田林市立寺池台小学校」に通っていたが、このサイトの中にある同名の学校に自分の名前と卒業年を登録しておけば、同じ時代に同じ学校に通っていた人の名前を見つけたり、あるいは相手が私の名前を見つけたりして、メールで言葉を交わすことができるかもしれない。とはいえ、まだまだこのサイトに名前を登録している人は少ないらしく、親しかった同級生に出会うことは稀なようだ。わたしは小学校、中学校、高校、大学と4つの学校に通ったことがあるので、どうせならとまとめて全部登録してしまった。

 期待を込めてリストをチェックするが、なかなか知っている名前は見当たらない。同級生といっても、一学年150人からいるんだから、その中の1割が登録していたとしても15人。同じクラスにいたとしても、私が覚えているのがまたその1割として1〜2人。そうそう見つかる訳がない。
 半ばあきらめながら高校時代のリストを眺めていると、頭の中でなにかがちかちかっと閃いた。慌てて目をこらしてみる。と、そこには同じクラブに所属していた男の子の名前があった。「ケイゾーくんだ!」。気づいた途端に、心臓が飛び上がった。「なんてこった、ケイゾーくんだ!」。駆け回りたいという、妙な衝動に駆られる。なんで今わたしは走りたいのか、そんなことは知ったこっちゃない。とにかく、この名前を見たら走りたくなるらしい私は。家の中をパタパタとめぐりながら、頭の中は急いで「ケイゾーくん」に関するデータを集める。記憶の彼方から、いろんな情報が集まってくる。「そうそう、同じクラブだったんだけど、うちのグループはてんで人気がなくて、あちらは学年代表だもんね」「そういえば、ヤツは私の隣の席だったこともあるぞ」「ん〜よくアホっていわれてたような気もする」…思い出さなくていいことまで、どんどん思い出してしまう。「あ、コロンをつけていたっけ」。ここでぴたっと足は止まる。鼻の中に、コロンの香りが広がる。甘くてすっぱい、柑橘系の香り。
 そういえば、何故そういうことになったのかといういきさつは忘れてしまったが、一度彼と筆箱を交換して帰ったことがあった。家で勉強をしようと筆箱を開いたら、あの独特の柑橘系の香りが広がってドキっとした覚えがある。背が高く、髪が長く、ギターを抱えてきれいなハイトーンでボーカルを担当していた彼は、当時かなり人気があった。「モテる男はキライ」だった私は、そんな彼を「好き」だなんて認めたくなかったし、果たして好きだったのかどうか、今のわたしにもわからない。ただ、あの香りだけは胸の奥をざわつかせ、その夜なかなか眠れなかったことだけは覚えている。

 そんなことまで思い出してしまったから、もうたまらない。その後のケイゾーくんに興味は尽きず、ついにメールを書く決意をした。らしくなく、キーボードを前に肩に力が入る。なんとかけばいいだろう、なんとかけば…。まずは名前だ。「こんにちは、井上です。覚えてるかな…」。おかしな話だが、このときほど「離婚してよかった」と思ったことはなかった。なんせ、旧姓のままなんだもの。「岩田(旧姓、井上)」という表記は、なんかかっこ悪いような気がする。井上なら、なんの注釈もいれずに「井上」のままでいい。これだけのことが、なんとも嬉しい。その後、自分の近況だの、学校時代のことだの、つらつらと書き綴ってえいやっとメールを送信した。ままよ、あとは返事を待つだけだ。

 翌日、待ちに待ったケイゾーくんからのお返事メールが届いた。「おう、もちろん覚えてる…」。とりあえず忘れてはいないらしい。ちょっとだけほっとした。こっちが覚えているのに、あちらが忘れているなんてイヤすぎる。「今東京で仕事しとるんやで。時々村岡とも飲んだりする」。懐かしい名前があった。なんとなく嬉しい。「東京やったら、いつでも会えるな! 今度飲みに行く?」。ケイゾーくんのお誘いである。断るわけにはいかない。「ぜひぜひぜひっ!」と「ぜひ」を3つもオマケしてしまう。
 現在2つの会社の社長をやっている彼は、とても仕事が忙しそうだった。ということで、ランチをご一緒するというお手軽なパターンに落ち着いた。昔よりかなり太ってしまった私は、いろいろ試した結果、一番細く見える服をえらんだ。念入りに化粧し(といっても、ファンデーションと口紅とアイブロウしか持っていないが…)、張り切って待ち合わせ場所に向かう。
 電車に乗って座席に座り、ふと前の席に座った会社員を見た。仕事に疲れたサラリーマン風の彼は、大きなお腹を揺らしながら2人分ものスペースを占領した。「やーね」とその顔を見ると、さほど年はとっていない。そう、わたしと同い年くらいの男だ。瞬間、悪い予感が走った。なんのかんのいっても、もうすぐ40に届くという年齢なのだ。ケイゾーくんだって、きっと昔とは違う。この前に座ったオジサンのごとく、ビール腹揺らして笑うオヤジになってしまったかもしれない。そうなっていたらどうしよう、そうなっていたら…。私は自問自答してみた。「みか、あんたはそんな彼を見ても、にこやかに笑っていられるかしら?」。おそろしいことに、答えはノー。悪いけど、私は正直者なんだ。そんな姿の彼を見たら、きっと顔をこわばらせ、まっとうな受け答えができなくなるに違いない。そんなことになったら、かわいそうなケイゾーくんは、きっと自己嫌悪に陥ってしまう…。自分だって相手にがっかりされるかもしれないというのに、全くいい気なものである。相手が変わり果てた姿でも、いかに普通に振舞うかという大問題の前に、自分の中にも過ぎていった時間なんてすっかり忘れてしまったらしい。いつの間にかケンタッキーおじさんのごとく膨らまされてしまったケイゾーくんが、私の頭の中を占領していた。

 「ケンタッキーケイゾーくん」に頭を悩まされているうちに、待ち合わせの場所についてしまった私。いろいろ考えても仕方ない。すっかり観念して、約束通りケイゾーくんの携帯に電話をかけた。「着いた?そしたら、すぐ行くからそこで待ってて」。電話から、20年ぶりの声が聞こえてくる。ありがとう、声だけは昔のままです、わたしはこのまま家に帰ります…。くるっと方向を変えて「ケンタッキーケイゾーくん」に別れを告げ、もう一度電車に乗り込みたい。しかし、無常にも電話の声はそれを許そうとはしない。「そこからすぐ近くにいるんだよ…ほら、ついた。あれ、どこにいる?」。咄嗟に、身近な路地に身を隠す。どうやら敵は近くにいるらしい。電話をもったまま、キョロキョロとそれらしい人物を探す。携帯をもって回りを見回している男は…当然、すぐに見つかった。ケイゾーくんは、昔から背が高かったのだ。ひと回り背の高い男が、あちこち見ながら携帯でしゃべっていた。まずは腹部を確認する。…よかった、ビール腹じゃなかった。次に顔をチェックする。アゴを囲んだもしゃもしゃヒゲに、少なからずショックを受ける。
 「ケイゾーくん、ここだってば」。電話でしゃべりながら、彼に近づく。「あ、そこにおったんか」。目の前には、笑顔のケイゾーくん。その表情を見た途端、一気に時間がさかのぼった。うひゃー、こいつ変わってない!ヒゲは全く印象を変えているけれど、ヒゲの奥にある素顔は昔のままだ。いろいろ心配していた私は、ほっとしながらふと我に返った。ヤバイ、こいつ太ってない。しかし、わたしは完璧に太った! 「井上、元気そうやなあ」という彼の言葉が、ハートにつきささる。キャシャな少女だった頃を知っている男が、しげしげと私を眺めている。居たたまれなくなった私は、「久しぶりやね〜!変わってないね〜!」を連発しながらさっさと歩く。こんな状況で、じっとなんてしていられない。

 昼時なので、どの店も混んでいる。「ここでえーか?」と入った店は、ちょっと高級そうな天麩羅屋さん。お互い、こんな高級な店でお昼食べられる身分になったんやねえ、としみじみする。それってつまり、それだけ年をとったということなんだけど…。
 「それにしても、変わらないね。昔のままやん」「そうか?そんなことないで。途中めちゃめちゃ太ったりしたし…」「村岡くんって懐かしいわあ、元気にしてる?」…話は弾む。不思議なもので、同じ時間を共有した人といると、すっかり忘れていたはずのことまで思い出す。「由美もこっちにいるんよ。それからね…」。アレからどうした情報が飛び交う。なにを聞いても懐かしい。
「そういえば、秀島さんって覚えてる?」「うんうん!保先輩でしょ、覚えてるさー」。懐かしい名前第5弾目くらいになると、思い出す速度も加速する。「保先輩のおかげで、わたしギター弾けるようになったんだもん。それにほら、私の詩に曲つけてくれたのも先輩やったでしょ。覚えてるに決まってるよ。なつかしー! 先輩、今どこに住んでるの?」「秀島さんな、死んだんやで」。
…。
…。
…。
「…うそぉ」
「ほんまに。19才やったかな。あのあと、すぐや。バイクで事故ってなあ」
「知らんかった…」
「みんな知ってたと思ってた。知らんかったんか。一法さん、ひどくショック受けてさあ、大変やったんやで」

 ケイゾーくんの声が、遠くなった。鼻の奥がツーンとする。ヤバイ、これは泣くな、と思った。目を見開いて、どうにか我慢する。泣いてはダメだ、と何度も自分に言い聞かせた。なんで泣きそうなんだろう私、と考えている余裕はなかった。ともかく、今日は泣いてはダメだ。ケイゾーくんと、天麩羅を食べよう。
 目の前にある海老天に箸を伸ばす。「うん、食べよう。ここ割と人気あるんやで」。ケイゾーくんも、天麩羅を食べ始めた。食べているときは、しゃべらずに済む。うつむいて天麩羅をほおばる。もぐもぐもぐ…。食べながら、突然襲いかかった激しい悲しさを胸の奥に封じ込めた。

 その後、どうにか悲しみを遠ざけた私は、再びテンション高くケイゾーくんと懐かし話に花を咲かせた。あっという間に1時間は過ぎ、彼は会社に戻るといった。
「また会おうな。今度は村岡たちも呼んで」「そうね、また会おう。今度会うときは、高校のときのケイゾーくんの歌声を録音したテープ、持ってきてあげようね」「そんなんあるの!そしたら、絶対もってきてや!」。
 再会を誓いあって別れた。背の高い彼は、手を振りながらスタスタとオフィス街に消えていった。

 家に戻ると、封じ込めていた悲しみがよみがえってきた。もう誰に遠慮することもない、泣きたいなら泣けばいいと思った。不思議なことに、そう思うと涙も流れてこない。食卓にバッグを置き、興奮して疲れた頭をぼーっと休憩させながら、思うでもなく保先輩のことを思い出していた。細い人だった。女性のようにきれいな面立ちだった。留年して、三年生を二度やっていたらしい。誰もがすぐに覚えてしまうような、印象的な曲を書く人だった。わたしの書いた詩に曲をつけ、ライブで歌ってくれたこともあった。タバコを吸って、停学になったこともあったっけ。見るからに繊細で、でもいつも悪いことばかりやっていた先輩だった。下級生は皆、秀島さんの曲をギターで練習するところから始めていた。そういう意味では、神様みたいな人だった。

 それよりも何よりも、なぜ私が涙を流さんばかりに悲しいのか、誰かその訳を教えてほしかった。保先輩のことなんて、ここ何十年も思い出したこともなかったのに。もともと心の中になかった人が、「死んだ」と聞いただけで急に重要になるなんて、そんなことある訳がない。
 しかし、悲しみはいつまでも続いた。翌日も、その翌日も、朝目が覚めるたびにうんざりした。最初に頭の中に浮かぶ言葉が、「保先輩は19で死んでたのに…」という言葉。その続きが知りたかった。「死んでいたのに、」の続き。わたしはそこに、どんな感情を続けていたんだろう。「私ばっかり楽しくて」だろうか、それとも「音楽やってると信じてたのに」だろうか。なにが、わたしをこれほど参らせているのだろう。それがわかるまで、この行き場のない悲しい気持ちは終わらないような気がした。

 ある日、PHSに友だちからショートメールが届いた。彼女の近況がつづられている。何度かメッセージをやり取りしながら、わたしは彼女にこの話をしてみようと思った。
「先輩が死んだのを、今頃知ったの。それが悲しくてね。19のときに、バイク事故で死んだらしいんだけど…」。彼女は、当たり前のように返事を返した。
「知らなかったのがツライんだね。その不在をしらなかったってことが」。
 このメールを読んだ途端、胸のつかえがずーっと降りた。そうだ、私「知らなかった20年間」が悲しかったんだ。先輩がどこかにいると思っていた、信じていた、その20年間が。「保先輩は19で死んでたのに…」の続きは、「だけど私はそれを知らなかった」。不在を知らないせつなさを、わたしはこれまで経験したことがなかった。だから、そんな悲しさをどうしても理解できなかったらしい。

 やっかいなことに、「悲しさ」や「切なさ」は、理由より先にやってくるものらしい。ふいに襲われた悲しみは、とりあえず悲しんでやるしかないようだ。保先輩の不在を知らなかった悲しみは、その後どうにか居場所を見つけ、録音テープを聞きながら涙を流させたりもした。


●あとがき
 真花です。激しく夏バテ中。春は花粉で眠れないし、夏は暑くて眠れないし、冬は冷えて眠れないし、まったく四季のある国はやっかいです。