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性同一性障害というハンディ



 最近できた友達の話。彼女(彼)は、性同一性障害なのだそうだ。小さい頃から、自分自身にずっと違和感を感じていたそうだが、その感覚を「二世にとって、国が違うのと感覚が似ている。たとえば、中国と日本の二世が日本国籍になったとき、感じる違和感と近いと思う」と説明した。ずっとその違和感が何なのかわからず、悩み、男として生きるために努力してきた。頭を丸坊主にしたことも、空手を習ったこともあったそうだ。


 18のとき、イミダスで「性同一性障害」という言葉を知った時、彼女の世界が変わった。そのとき、「自分の感覚は間違ってなかったと思った」と思ったそうだ。そこから、長い戦いが始まった。しかしそれは、何かを勝ち取るための戦いではなく、「自分が自分として生きる」ための戦い。私たちにとっては当たり前のことも、彼女にとっては大変な苦労の後、やっとかなうことばかりだ。


 4年かけて「性同一性障害」であると認定され、初めて医者の治療を受けられるようになった。今も、ホルモン注射を打ち続けている。彼女にとって、自分が女性であることはとても普通のことで、「女にみせるための努力をしたり、声を高くしたりする」というような努力はあえてしない。実際、彼女に初めて会ったとき、普通の女の子に見えた。よく女装した男性に感じるような、妙に目立ってしまうようなことはなかった。おとなしいお嬢さんだなというのが、彼女の第一印象だった。


 ところで彼女は、私のことを「見かけは小柄でおとなしそうなんだけど、中身はパワフル」と表現した。私は元来、さほど強い人間ではないので、ぱっと見おとなしく見えるのも、決して間違いではない。ではなぜそんなギャップが生まれたかというと、きっとこれまでの人生に越えなければいけない山がいくつかあって、そこを越えてきたからだと思う。でもそれは、「よくがんばったね」といわれるような種類の山ではない。それこそ彼女と同じで、私は私として生きたかったという、ただそれだけのことなのだ。