昨日の続き。まだきちんと整理できていないけれど、構えすぎてタイミングを逸すると書けなくなってしまうので、とにかく思いついたまま、つれづれに書いてみることにした。
昨日の日記についたコメントにもちょっと書いたけれど、mixi日記とブログをどう両立していくかという問題を突き詰めていくと、最後にはアイデンティティ、つまり「自分自身をどう定義するか」というところに行き着くような気がする。実社会の中で生きていく上で、アイデンティティは自ら確立するものではなく、他者やステイタスによって決められることが多い。たとえば、●●会社の課長であるとか、●●くんのお母さんであるとか、●●学校の生徒であるというように、環境が決めたアイデンティティの枠内で、なんとかそれらしく生きようとしていくうちに、自然とアイデンティティが築き上げられていくケースが多いだろう。
この場合、とくに自己分析したり、悩んだりすることなく、自然とそうなっていくから、「自分はこういう人間である」と改めて意識することも少ない。しかしその枠は、意識するしないに関わらず、当人の意見や行動に大きく影響していく。自分では「これは私の意見だ」と思って発言していても、実はそれまで育ってきた環境の中で身に付いた慣習でものを言っているということが、とても多いのだ。
一方、ネットの中の人格には、そういった枠がない。もちろん、実社会で築いてきたアイデンティティをそのまま持ち込むこともできるが、まったく別の人格を形成することもできる。改めて某巨大掲示板の例を出すまでもなく、匿名性が許されるということは、すなわち実社会で自分を取り囲んでいた枠から解放されて自由を手に入れるということに他ならない。
この自由は、実社会の中で自分に与えられた立場にどうしても共感できない人にとって、かけがえのない宝物になる可能性がある。…たとえば「自分はもっとデキる男のはずなのに、会社の中ではなかなか評価されない」と不満をもっている人や、「私はこんなにいい女なのに、なぜ彼氏ができないの」と不思議に思っている人、「こんなに努力しているのに、いい成績がとれないのはなぜだろう」と悩んでいる学生にとっては、社会が用意した枠を取り外して生きられるネットの世界は、桃源郷のように思えるかもしれない。もし本当に「能力」や「魅力」が備わっているのであれば、それはきっとネットの人格に反映されるだろうし、ネットの中で出会った相手からは先入観のない評価を受けることができるだろう。そのとき、はじめて自身のアイデンティティと回りからの評価が一致する喜びを感じる人は、そう少なくないはずだ。
現代社会でブログやSNSがこれほど流行した背景には、こういった人たちの存在があったような気がする。とくに最近は、経済状況が不安定ということもあり、社会が個人に与えた枠があっという間に崩れてしまうことも珍しくない。先日、飲み会の席でとある社長がこんなことを言っていた。「人が決めた価値基準にあわせて自分を位置づけると、相手や場所によって自分が変わらなくてはいけないから、なかなか安定しない。自分が誰なのかを自分自身で決めてしまえば、軸がぶれないから安定する」。確かに、不確定なことが多いこの社会では、人の決めた枠や基準にあわせて自分を位置づけていると、明日の自分がどうなるのかさえ見えなくなってしまいがちだ。となれば、周囲に任せることなく、自分がなんたるかを自分で決める必要がある。その「自分探し」という作業を、ネットの中でやっている人は、年々増えてきているのではないだろうか。
…と、長くなってきたので今日はここまで。なかなかmixiとブログの話にならなくて申し訳ないけれど、今しばらくおつきあい願いたい。