長年「言葉には絶対的な意味があり、それを記しているのが辞書である」と思っていたが、最近そうではないと思うようになった。言葉には、使う人や場所、時代といった背景があり、それによって言葉の意味がかなり違ってくる。人や場所、時代によって違うからといって、どれが間違いでどれが正解といったこともない。つまり、いつでもどこでも判断できるオールマイティな意味などないのだ。
となると、「辞書」は、その時代に生きる人たちの言葉に対する思いを集め、総括してたものであるとも考えられる。きっと辞書を編纂する人たちは、いろんな事例を見ながら平均的な言葉の意味を見つけ出すという途方もない作業を、日夜続けているのだろう。
インターネット上で、この作業を有志を集めてやってみないかという試みがあった。しかし、辞書を作るためではない。いってみれば、ちょっとした実験。ひとつの言葉に対して、いろんな人が自分の考える意味をつけ、しかもその言葉を使った文章を全てリンクでつなげば、面白い世界が開けるのではないかという、とても壮大な試みだった。
言葉をリンクでつなぐというのは、インターネットの得意技である。インターネットが普及し、一般の人が自分の日記をインターネットで公開するといった文化が定着した現在だからこそ、こういった試みが可能となったのだろう。
その試みは、「はてなダイアリー」というインターネットの日記サービスのオプション機能として提供された。はてなダイアリー創立当初から提供されていた、「キーワード」という機能である。はてなダイアリーに登録し、そこで日記を公開している人は、自分の日記の中に出てくる言葉を「キーワード」として登録することができる。キーワードは、自分なりの言葉の意味づけをして登録することになる。サービス提供当初は、その意味に対して、他の会員が自分なりの意味を追加、編集してもいいことになっていた。
「はてなダイアリー」を利用している人なら誰でも自分なりの意味づけを公開し、それぞれの書いた意味づけに対して意見交換を行うことができるというこのシステムは、参加している人にとっても、またその情報を利用している人にとっても、大変おもしろく、ためになるサービスだった。日々多くの言葉がキーワードとして登録され、その言葉に対してさまざまな人が意味づけを行い、足りない意味を補ったり、適切でない意味を議論によって削除したりと、活発な活動が行われていた。
しかし、とても残念なことに、やがてこのサービスがさまざまな問題を引き起こすことになった。あるとき、とある言葉がキーワード登録された。その言葉は、普通に使えば単なる名称だけれど、使い方によっては差別用語にもなるという、とても微妙な言葉だった。登録された言葉には、読み方によっては差別用語としてとれなくもないような表現を含んだ意味がつけられていた。
正直、私はその言葉の意味を読んだとき、それが差別用語だとは思わなかった。しかし、その言葉で差別されたことのある人にとって、それは耐えがたい表現であったらしい。このキーワードは削除してほしいという申し出があり、ここから論争が始まった。回りから見ると「たかが言葉じゃない。適当に折り合いをつけておけばいいのに」程度の問題に見えなくもなかったけれど、両者にとってはそんな簡単な話ではなかったらしい。
現在「はてなダイアリー」は、言葉の意味を話し合うというサービスを停止し、キーワード登録して意味をつけるだけのサービスを提供するようになった。とても面白い試みであっただけに非常に残念だが、その反面、人に対する攻撃の材料ともなりうる。この試みは、いわば諸刃の剣だったのだろう。
私は、その論争を傍観しながら、やはり言葉の力は侮れないと、改めてその重要性を再確認した。言葉はかくも人を傷つけ、アイデンティティを左右するものなのだ。だからこそ、言葉の扱いは慎重でなければならないし、いい加減であってはいけない。
その指針のひとつとして、私は辞書を使用する。意味を間違わないためというより、その言葉を使ってうっかり他人を傷つけてしまわないようにとか、あるいは誤解して伝わってしまわないようにとか、まあそういった「人との関係を悪化させないために」という意味合いのほうが強いような気がする。しかしその指針もまた、時代と共に変化する。
ネットの普及と共に、誰でもメッセージを発信できるようになった。と同時に、あらゆる言葉に新しい意味が付け加えられるようになり、また新しい言葉も生まれた。その中には、人の気持ちを傷つけるパワーをもつ言葉、人との関わりを一切遮断するような言葉、未来を絶望するような言葉もある。
この辞書には、今の私たちの総意が反映されている。この中の言葉たちが、後世に恥じないような意味で使われるようにするためには、私たち一人一人が人との関係をもっと丁寧に、大事にしていかなければならないのだろう。年が変わり、新しい辞書を開くたびに、この言葉たちが聡明な輝きをもつようにと願わずにはいられない。
(2004年7月)