25年前にNIFTY-ServeのFBOOKというフォーラムで知り合った仲田智彦さん、現在はFacebookのお友達としてつながっています。滅多に顔をあわせることもなく、たまに投稿をみている程度だったのですが、つい最近、仲田さんが書いた投稿が気になり、会ってお話してみたいと思うようになりました。その投稿とは、以下の通り(仲田さんに許可を得て転載しています)。
令和の初めに、平成の始まりの地を久々に訪れた。私が上京して下宿をしていたところだ。
ずいぶん変わっていた。
駅前はおそらく311の後の耐震工事で、店子がほとんど入れ替わっていたし、駅裏には知らない商業ビルが建っていた。よく行った中華料理屋や定食屋は、ほとんど建物ごとなくなっていた。スーパーや八百屋はほとんど変わっていなかったのは土地柄か。タモリの言うように、どんなに建物は変わっても、道は変わらないので、目ではなく足主導で歩いていける。周りを見ながらゆっくりと、徒歩15分くらいで、住んでいたところへ。
建物はあった。
窓や入り口は板がはめられている。ほとんどお化け屋敷のていだ。家の近くの、よく通った銭湯も同じく。そちらは蔦が絡まり、ジブリのポストアポカリプスの描写に近い。そう、思い出の地にあったのは、雨晒しの廃屋だ。ショックを受けている自分に驚く。
どうなっていて欲しかったのか。
一番は、美しく改装してあり、現役として建物が生きていること。思い出に化粧がされて受け継がれていく感覚。
そうでなければ、真っ平らになって、現実と思い出が完全に決別していること。
しかしそれは、郷愁といえば美しいが、つまりは自分にしか通用しないずいぶんと都合がよい妄執というべきだろう。ああ、怖い。無意識とはいえそんな妄執を持っている自分が怖い。思いと現実は切り離して考える人だと自分のことを思っていたが、そうじゃなかった。なかなかの恐怖体験であった。令和の初めとしては、なかなか良い冷や水を浴びた気分だ。返って爽快だ。
やはり自分には未来しかない。現実と、ありたい未来を、どうにかして一本線で繋いで実現していくことだけで今日を生きていく。これが、老醜にならずに生きる、唯一の方法のような気がした。
この投稿を読んで私が気になったのは、最後の「老醜にならずに生きる」という部分。彼が思う「老醜」とはどういうものなのか。また、なぜ昔住んでいた家が廃屋になっていてショックだったのか。そこで、直接会って質問をぶつけてみることにしました。
少し長いですが、誰にでもやがて訪れる「老い」について考えるにはよい機会だと思いますので、ぜひご一読ください。
井上 なぜ昔住んでいた家が廃屋になっていてショックだったの?
仲田 ぼくにとっての黄金時代はいくつかあるんだけど、そのひとつが大学生の頃。もうずいぶん時間が経っているから、家が古くなっているだろうという予想はついていたんだけど、その予想のなかの家は、ツタが絡まっている古いけどちょっとかっこいい家か、建て変えられてまったく新しく別の建物になっている家だった。歳を重ねているにしても、再出発しているにしても、どちらにしてもカッコいいという(笑) しかし実際はそのどちらでもなく、原型もわからないほど朽ちていた廃屋だった。ぼくの目には、それが醜く老いさらばえた姿に見えたんだ。
井上 そのショックが「老醜」という言葉になったのかな。
仲田 そう。若い頃はいろいろ活躍していた人が、年を取ってできないことが増え、誰に省みられることもなく老いさらばえていく。そんな姿に見えたのかもしれない。
自分も歳をとってきたしさ、もう若くはないという自覚はある。だからといって、自分の体をゼロリセットすることはできはしないしね。朽ちていく廃屋を見て、そのイメージを自分に重ねたのかもしれない。
井上 年をとることをネガティヴに捉えているの?
仲田 年をとると、悪いこともあるし、いいこともある。わかりやすい例だと、身体能力は落ちるし、記憶力は落ちる。これは、悪いことだよね。ただ、年をとったほうが若い頃よりロジックの組み立て方や判断の精度はあがるという一面もある。
判断力があがるのは、それだけ経験を積み、あらゆるパターンを知ったからだと思う。なかでも大切なのは、失敗するパターンを覚えておくこと。成功するパターンは毎回違うけれど、失敗するパターンはだいたい決まっていて、それをたくさん知っていれば成功する確率は上がる。
失敗しても、それをフォローするすべも知っているから、大負けすることはない。つまり、年をとるとリスクをとれるようになる。これは、年をとるメリットだね。
とはいえ、どんどん年を重ねていけば、最終的には判断能力や認知能力が衰える。 そうなったら、もうどうしようもないよ。
「老醜」の「老」は「老いていく」というベクトル。「醜」は「醜いという状態」。時間が経つ以上、老化は不可避。「老いて」いけば、いろんな能力がなくなるのも当然。それどころか、いろんな能力を失っていくなかで、元々持っていた「何か」が露出してくるかもしれない。その「何か」が、とても醜いものかもしれない。
井上 能力がなくなるだけじゃなく、それによってその底にある「何か」があらわになり、しかもそれが醜いとなると、そりゃあ怖いよね。
仲田 ぼくが感じる「醜」の大きな要素に、「頑固」がある。これは、なにも年を取った人に限ったことではない。年齢にかかわらず、頑固な人はいるよね。聞く耳を持たず、自分の考えを曲げようとしない人をみると、ぼくはそれを「醜い」と感じる。その理由は「自己検証」と「アップデート」をしないから。
井上 自己検証とアップデート? どういうこと?
仲田 自己検証は、今の自分を客観的に省みること。アップデートは、今の自分が過去の自分と違うと言うことを受け入れること。そういうことをしない人は、過去の成功体験にだけ目がいって、今ではそれが通用しないことに気づかず、しがみついてしまう。「自己顕示欲」と「自己肯定感」が暴走してしまう。
それでも、自分ひとりでそう思っている分には、まだ害がない。これが「ほかの人も当然そう思っている、だから自分を大事にしてくれる」と無邪気に信じている人は、やっかいだよ。他人がそう思っていないと知るやいなや、怒りを露わにするからね。
井上 「当然」という部分がポイントね。自分がリスペクトされることに疑いがない。
仲田 そうそう。では、なぜそれを「当然」と思うのか。
これはぼくが個人的に知っている人の話だけど、彼は長年「なぜ自分は人からリスペクトされないのか」という疑問を抱えつつ、それを外に出さずに我慢してきたように思う。なぜ我慢できたかというと、「会社」というコミュニティの中にいたから。
集団のなかにいれば、誰かしら「そうじゃないよ」とたしなめてくれる。だから、ある程度は抑えられる。ところが、年をとると目下のものばかりになり、誰もが彼をたしなめられなくなる。職位が上になれば、さらに自尊感情が膨らんでしまう。そうすると、どんどん我慢がきかなくなる。
井上 そういう人、たしかに多いかもしれない。
仲田 ところが定年になり退社すると、当然、会社の肩書きはなくなり、ただの人になる。そうすると、それまで自分を守ってきたものが一気になくなってしまう。たとえるとすれば、高校三年生が大学一年になって、一気にヒエラルキーの底辺に落ちるみたいな。
彼は、きっとこんな風に思うだろう。「今まではずっと尊重されていたのに、急に邪魔者扱いしやがって!」。このギャップは、なかなか耐えがたいだろうね。
仲田 耐えられないから、肩を怒らせ、目を吊り上げ、耳を塞ぎ、「どうして自分をリスペクトしない!」とシャウトする。その姿を見て、ぼくは「醜い」と感じてしまう。醜さに蓋をする、ブレーキをかける理性のない人間は、人間ではないとすら思ってしまう。
井上 え、理性がなくなると、人間でなくなるの?
仲田 もちろん、極論だけどね。『山月記』という話があるよね。そのなかに出てくる「李徴」という人は、ふだんは理性がきかないトラだけど、たまに人間に戻る。トラになった自分は、理性で制御できない。ただ、その時の記憶はあるから、人間に戻ったときに思い返し、それが悲しくて泣く。そして、最後はついに思い出すことすらなくなってしまう。それでも、彼は生きているんだよ。
井上 なるほど、山月記のトラね。それは切ない。そうなりたくはないよね。
仲田 そう。なりたくない。でも、なってしまうかもしれない。『アリスのままで』という若年性アルツハイマーにかかった人を題材にした映画を見たんだけど、そこに出てくるアリスは聡明な人だった。彼女はとても努力するんだけど、時を追うごとに理性による制御ができなくなっていく。
ぼくの近親者で、すでに亡くなっている人も、多かれ少なかれ、認知がおかしくなったんだ。そのことを思い出して、恐ろしいような気がしたよ。理性をうまく使えば、老いて醜くなることを遅らせることはできる。でも、最後は理性というブレーキが効かなくなり、ついには負けてしまう。それをわかった上で戦うなんて、悲壮感あふれててちょっとツライよね。
「老化」という、絶対に勝てない相手と戦うのは恐い。その「どうにもならなさ」が「老い」だとすれば、どうするのがいいんだろう。ぼくは日々、劣化していく自分を感じて恐怖を感じている。いつか理性や認知力が消えて、アリスや李徴みたいになってしまうかもしれない。それ、マジ怖いんですけど。
井上 理性がなくなるかもしれないということを受け入れた上で、人間が人間でいられるようにするにはどうすればいいと思う?
仲田 個人でなんとかするのは限界がある。家族レベルだったり、コミュニティレベルだったり、社会レベルだったりと、システムでなんとかすることも必要。
かといって、システムが整うのを待てばいいってことではない。自分ひとりでやれることはないか、考えたり準備したりすることはできるよね。老化に伴ってできないことが1つ増えれば、自分ができることを考えて、その範囲でカバーできるように工夫する。いつか理性の歯止めがきかなくなるかもしれないけれど、できるところまで、ギリギリまであがいていたいな。はたから見たら稚拙かもしれないけど、投げ出すよりは美しいかもって思うよ。
井上 そうそう。諦めずにやっていれば、きっといいことあるのよ。
仲田 あとね、「醜さ」に対抗する方法って、もう一つあるかもしれないと考え始めている。「醜い」の反対は、「かわいい」かもしれない。だったら、やりようがある。
井上 というと?
仲田 今までの話って、「理性でがんばって、ギリギリまでブレーキをかけられるようにしよう」っていう話だよね。これ、自分は本来、醜い存在であるってことが前提になっているけど、もしかするとそうじゃないんじゃないか。
ぼくはずっと「美しさ」を重んじてきた。でも、「美しさ」には、人を遠ざける力がある気がする。日本人は、桜が散る景色を見て「美しい」と思うけど、桜のように最期まで自分の美に殉ずる努力をするのは、あまりにご立派過ぎて近づきたきたくないような気もする。
その反対に、「かわいさ」には人を近づける力がある。ダメでもバカでも、愛嬌があれば醜くはないんじゃないかって思う。自分の「醜さ」を「理性」でお化粧するのではなく、お化粧が剥げてスッピンになっても、愛嬌のある笑顔でがあればかわいいよね。そうやって、元来の自分をさらけ出してもいいような気もするんだよ。
ぼくの祖母は、最期は初孫であるぼくのことが全然わからなくなるほど認知能力が低下したのね。でも彼女は、ずっと愛嬌があって、かわいらしくて、チャーミングだった。彼女を思い出すと、無理して理性で制御しなくても、本来の自分はいけてるんじゃないかと思えてくる。
そう考えると、「老い」は「醜さ」を連れてくる恐しい存在ではなくなるのかも。アリスや李徴とは違ったロールモデルがあれば、老化はしんどいけど、絶望ではないかもしれない。今のぼくは、そうであってほしいと祈りつつ、そうなるには何をすればいいんだろうと日々考えているんだよ。
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