野々宮卯妙さんと初めて会ったのは、20数年前。その後、彼女は水城ゆうさんと一緒に「アイ文庫」という会社を立ち上げ、オーディオブック制作を始めました。それからしばらく疎遠だったけれど、ある日Facebookで近況をチェックしていたら、そこにはステージ上で朗読をしている野々宮さんの姿が。なぜ野々宮さんは朗読を始めたのか? そもそも現代朗読とはなんなのか? 早速インタビューを申し込み、アイ文庫がある国立へと向かいました。
井上 昔は違う名前だったよね。どうして「野々宮卯妙」という名前に変えたの?
野々宮 以前、時事問題を俳句でまとめるというシリーズをやっていたんだけど、その俳号としてつけた名前が「野々宮卯妙(ののみやうたえ)」。妹に「二葉亭四迷みたいな名前にしたい」と話したら、次の日に「野々宮卯妙」という名前が届いたの。この名前がとても気に入ったので、それ以降ずっと「野々宮卯妙」を名乗っています。
井上 二葉亭四迷? 野々宮卯妙とどういう関係が?
野々宮 二葉亭四迷の元ネタは「くたばってしまえ」でしょう。で、「野々宮卯妙」の元ネタは「飲めや歌え」。
井上 あ、ほんとだ! 気づかなかった……。ところで、現代朗読はいつから始めたの?
野々宮 2006年に始めたから、今年で13年になるね。
井上 現代朗読を始めたきっかけは?
野々宮 アイ文庫で「オーディオブック」を作っていたでしょう。私はアイ文庫の人として録音現場に同席してたんだけど、声優の卵の若い人たちの中には古い文学作品なんて読んだことがないような子たちもいたので、漢字の読みを教えたりしていたの。
そこでわかったこともあって、声優やアナウンサー、ナレーターは、間違いのないように読むことは訓練されている。でも、「表現」としての読みは知らないし、点数の付かないことをやることへの恐れもある。そこで水城さんは、彼らを指導して現代アートとしての朗読を追求するという試みにチャレンジしたの。で、これがうまくいったものだから、次に「この手法は素人にも応用できるのでは」と考えた。そして、私を実験台として色々試し始め、今の「現代朗読」を作り上げたというわけ。
井上 野々宮さんの朗読、前に見たことがあるけど、まるで劇を見ているようなステージで印象的だった。ああいうものは、ほかにもあるの?
野々宮 そうね……。白石加代子さんが演出家の鴨下信一さんとやっていた「百物語」が似てるかもしれない。でも、あれは演劇から朗読へアプローチしたものだから、私たちがやっているのとは本質的には違うかな。それ以外だと、私が知る限り、ほかに同じようなものはないね。
現代朗読をやり始めた頃、よく朗読業界の人たちから「あれは朗読ではない」と批判されたの。彼らは、私の朗読を聞いたあと「うねってる」とか「古くさく聞こえる」とか言うんだけど、それを聞いても、私はどう直せばいいかわからず途方に暮れたわ。でも、隣でそれを聞いていた水城さんはピンときたようで、「それはこういう意味じゃないか」と解き明かしてくれた。そこからいろいろ試しているうちに、身体表現としての朗読に行き着き、今の形が完成したの。
井上 野々宮さんが話すセリフが、まるで役者のセリフのようでした。
野々宮 そうなんだ。そういえば、私の朗読を見たり聞いたりした人からも「映画のよう」「ファド(ポルトガルの哀愁のある音楽)を聞いているようだ」と言われるから、そんな風に見えるのかもしれないね。
でも、私は役を演じることはしてないの。朗読だから、ただ本のなかのセリフを読んでいるだけ。そのとき、ことさらに感情を込めたりはしてないんだけど、たしかに私の感情は存在する。だから、それが聞き手(の無意識)を刺激するということは起きているのかもしれないわね。同じようなことは、普通のコミュニケーションでも起こっているはずだし。私は、それを「口中調理のようなもの」と考えているの。
井上 「口中調理」って?
野々宮 料理を食べていると、口のなかでいくつかの食材が混ざって別の味わいが生まれるでしょう。それを「口中調理」というんだけど、それと同じことが朗読する人と聞いている人の間で起きている。つまり、朗読者と受取手のコラボ。だから、現代朗読のステージは、二度と同じものはできない。その瞬間、その場にだけ生まれるインプロビゼーション(即興)なの。
井上 野々宮さんが朗読する上で気をつけていることは?
野々宮 自分が自分自身であるということ。自分に正直であり、嘘をつかないということ。「こうしてやろう」と企まないこと。企んではダメ。そうすると、受け取る側も無意識に嫌な気持ちになるでしょう。
朗読しているとき、私は「今、どうなんだろう」ということを、瞬間瞬間、自分に問い続けているの。これは、NVC(共感的コミュニケーション)で学んだこと。NVCには、正解も間違いもない。どちらでもなく、どちらでもあるという、その中途半端さに耐えていかなければならない。「わからなさ」に留まっていなければならない。最近よく聞く言葉でいうと、「ネガティブ・ケイパビリティ」ね。
日本の学校教育では、早くに答えを出すことを求められるでしょう。私たちはそれを一所懸命やってきたから、答えを出さずに問い続けるなんてことはできない。でも、現代朗読ではそれをやらなければならない。どうすべきかを判断せず、ずっと自分に問い続けながら、その場に留まり続ける。これがとてもつらいんだけど、私にとっては魅力でもあるのよ。
井上 すごくむずかしそう。それを13年続けていった結果、今はどんな感じ? 少しは近づけた気がする?
野々宮 最初の頃に比べればね。当時はまったく見えていなかったし、そんな方向にいくということもわからなかった。まずは現代朗読から始まり、身体性だと気づいてアレクサンダー・テクニークを学び始め、NVCを知り、マインドフルネスと出会い、その後、韓氏意拳(中国武術)にいざなわれて……。
2006年から2013年というたった7年間の間に、これだけ(アレクサンダー・テクニーク、NVC、マインドフルネス、韓氏意拳)のことに出会ってしまったのよね。時には、よくわからなくて泣いたり、腹を立てたりしたけど、それをやってきたからこそ、今、現代朗読という場所でそれを体現できる。それらを全て統合した表現の場として、現代朗読というものがある。それぞれバラバラにみえるけど、振り返ってみるとすべて1つの線の上につながっているし、すべてが必然だったと思えるの。
井上 なるほどね。それにしても、水城さんが見つけた朗読の本質を自分自身で体現するのではなく、野々宮さんを通して体現していったというのは不思議ね。私からみると、まるで野々宮さんが水城さんの作品のように見える。
野々宮 だとしたら、嬉しいな。逆のことを言われたこともあったのよ。「野々宮が水城を作ったのだ」とね。とすると、私たちは壮大なコラボをしていたってことになるね!
野々宮卯妙さんと水城ゆうさんが出演する「ラストステージ/事象の地平線」は、東京と名古屋で開催されます。興味のある方は、以下のリンクから詳細をご覧ください。
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