〈隠居の書棚〉というタイトルの本コラムだが、今回は映画をとりあげる。『ナイブズアウト』だ。先週金曜日(2020年1月31日)に観て以来、一刻も早くご紹介せねばと思った。映画は、やはり上映期間中に劇場で観るのがベスト。読者のみなさんに、どうしてもベストな状態を味わってほしいのだ。
とかいいつつ、確定申告の準備やら通院やらの雑事に手をとられて、原稿に手が付かないまま一週間が過ぎてしまい、少々焦っている。急いでチケットを取ってほしい。
本格ミステリ映像の最高峰が突如現れた奇跡を、一緒に祝おう。
◆ 現代アメリカに、古典的ミステリ降臨
「昔ながら」の本格ミステリ書籍は、世界的にみると絶滅危惧種のようだ。アメリカはミステリの創始者ポーを生み、かつては煌めくような本格ミステリ大国だったのに、今や名探偵、トリック、謎解きなどをメインにした「こてこての作品」がメインストリームに現れることはほとんどない。その精神の一端は、どんでん返しが横溢するジェフリー・ディーヴァーなどの作品に生きているともいえるが、狭義の意味での古典ミステリの香気を放つ作品は、ほぼ滅びたようだ。エラリー・クイーンでさえ、もはや過去の作家として忘れられつつあると聞く。
かつては日本もそうなりかけていたが、横溝ブーム、幻影城派の台頭、島田荘司や笠井潔の出現、そして新本格ムーブメントの波がそれを押し返した。今やその波が、逆に世界に影響を与え始めているのは、華文ミステリについてのコラムで少し触れた。
とはいえ、その影響がアメリカまで届いているとは、ちょっと思えない。一昨年、クリスティの『オリエント急行の殺人』が映画化されたりしたが、どちらかというと過去の雰囲気を楽しむ、時代劇を観るようなイメージに近かったのではないだろうか。
そんな現代アメリカに、クラシックすぎるほどクラシックに見える、堂々たる本格ミステリ映画が、降って湧いたように現れた。しかも原作のない、完全オリジナルである。
老いた富豪が住む郊外の巨大な屋敷。彼の誕生日を祝うため集まった、遺産を期待する怪しげな親族たち。献身的につくす移民の看護師。誕生パーティーの翌朝、喉を切り裂かれた富豪が発見され、状況から自殺と判断される。だが、匿名の依頼人に雇われた「名探偵」がそれに意義を申し立て、やがて驚愕の遺言状が、遺族をパニックに追い込む。
王道というより、パロディか?と疑うほど「本格コード」にまみれた、背景と登場人物たちである。それを、過去に時代をとることなく、現代アメリカで堂々と成立させている。メタフィクション的な香りをかすかに漂わせつつも、決して茶化した扱いで誤魔化さないところに作り手の覚悟を感じる。
ありがちな舞台と登場人物による古臭い物語に見えて、その内容は複雑でトリッキー。地味かと思えば、突然大転回するプロット。大胆なものから細かなものまで、全編に張り巡らされた無数の手がかりと伏線。それが素晴らしい切れ味で綺麗に回収されていく快感。無理矢理な騙しによるサプライズではなく、緻密な推論の積み上げの末に、あらわになっていく意外な結末。
そのすべてが驚嘆すべき完成度である。本格ミステリの伝統が失われたように見える国に、いきなりこんなハイレベルな作品が現れるのだ。アメリカは侮れない。
◆王道本格ミステリを、映像世界になじませる手腕
僕はこれまで、別の所で「本格ミステリの映像化はろくなものにならない」と散々言ってきた。本格ミステリが核とする、謎の提出とそれを理屈でこねくり回す過程の面白さは、どうも映像を撮る多くの人にとって「ちっとも面白くない。客が求めていない」ものにしか見えないようなのだ。だから、それを平気で歪め、省略し、他の要素(犯人の動機告白や探偵の奇矯な行動など)ばかり膨らませる。
確かに、手がかりや伏線、推理の過程を事細かに描くと、映像として華もなく退屈になるという理屈もわからなくはない。だが、そんな常識を、絡め手ではなく、正面から打ち払う作品がついに現れたのだ。
『ナイブズアウト』は、宣伝文にも書かれているように、80年代に作られた「クリスティ原作映画」をお手本にしているように見える。ガジェットや背景はたしかにそれを思わせるが、クリスティ的なプロットをそのままなぞっているわけではない。ゼロから組み立てられた脚本は、より映像向きな構成を持っていて、それがこの映画の成功のカギを握っている。
物語は典型的なフーダニット(誰が犯人か)の形式で進むが、ちょうど真ん中あたりで大きな転機が訪れる。なんと、重要な視点人物の回想で、事件のときに何があったのかを全部見せてしまうのだ。解決編で暴かれるべき最大の謎がばらされてしまうことで、観客は一瞬とまどうだろう。その視点人物は、何がおきたかを知っているが故に、一種の「犯人」的な立場に追い込まれる。それ以後は、その人物がどう探偵の追求から逃げるかの、倒叙ミステリ的なサスペンスに変化していくのだ。
結局、正統派フーダニットの道を捨ててしまうのか…とがっかりする必要はない。これは、映像と相性の悪い(といわれる)本格ミステリを退屈させずに描くための、ひとつの技法なのである。そこから物語はさらに反転し、観客は何度も驚くことになる。
かつてウィリアム・リンクとリチャード・レビンソンという本格ミステリ好きの製作者が、倒叙形式を取り入れ、本格ミステリの醍醐味を、映像上で成立させ、大成功をおさめた。『刑事コロンボ』である。ライアン・ジョンソン監督は、本格ミステリを映像になじませる手段として、その手法を換骨奪胎し、応用したんじゃないだろうか(いつもの妄想です)。
この映画は、オールスターキャストによる登場人物と、クラシックな舞台の「雰囲気を楽しむ」ような作品ではない。映像による謎と論理のエンタテインメントを、最高到達点に押し上げた金字塔なのだ。
◆その他いろいろ
洋画を吹き替えで観るのが好きである。特に今回のように、激しくセリフが行き交う中で重要な伏線が張られたり、表情のニュアンスを汲むのが必要な映画では、字幕で気を取られたり、文章をはしょられたりするのがとても気になるのだ。しかしこの映画は字幕版しか上映されておらず、不満が大きかった。吹替版が入るだろうDVDで観るのを勧めるべきかとも思った。だが、よーく考えてみると、とても大事な手がかりのひとつが吹き替えでは表現できないものであることに気がついた。やはりDVDを待つより、すぐ劇場に観に行くことをおすすめしたい。
重要な登場人物として「嘘をつくとゲロを吐いてしまう体質をもつ証言者」が出てくる。これ、ミステリの特殊設定としては、いろいろ応用できそうな面白い発明だなぁと関心した。この監督は本当にミステリセンス抜群だ。でも映画内では、さらりとしか使われてなかったので、ちょっともったいないなとも思った。
ライアン・ジョンソンという監督は『スターウォーズ/最後のジェダイ』を撮った人として有名である。この映画、僕はそれまでのスターウォーズのダメなところを正した、画期的な作品だと思っていたのだが、スターウォーズファンからはいたく不評だったらしい。おかげで彼は次のスターウォーズには関わらず、この映画が作られたようだ。素晴らしい才能を手放してくれてありがとう。
◆牽強付会の映画ガイド
コロンボに先んじて作られた、倒叙的な性質のミステリ映画として、ヒッチコックの『ダイヤルMを廻せ!』がある。もともと舞台劇なところも共通している。舞台劇が原作の古典としては『探偵〈スルース〉』も有名。登場人物や場所を極端に絞り、映像に枷をかけられた、舞台劇のような作品は、本格ミステリと相性がいいのかもしれない。
近年の作品だと『search/サーチ』という「パソコンの画面内の画像だけで描かれた映画」が、非常に印象的。こちらも映像に強烈な枷をかけたがゆえに、何転もする謎解きの面白さに集中できる作品になったといえる。昨年公開された『THE GUILTY/ギルティ』というデンマーク映画は、主要登場人物が一人だけ。あとは電話の向こうの声だけという、映像より音に特化した映画。常識的な思い込みに、何度も足払いをかけられることだろう。
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