今回は、番外編です。
このコラムも、おかげさまで前回で10回を迎え、半年以上の時間がたちました。この間、世界的パンデミックという未曾有の大災害が発生し、それは現在も継続中です。ミステリは不要不急の文化かもしれませんが、それでもただ停滞してるわけではなく、日々状況は変化してますよね。
今回は一段落して、これまでとりあげたいくつかの本や映画について振り返り、付け加えたくなった部分を補完してみたいと思います。
◆女探偵だらけ
最後の葉村クロニクルを書いていてハッと気がついたのですが、これまでの10回のうち、華文ミステリと映画(『ナイブズアウト』)回以外は、メインにとりあげた本の探偵役がすべて女性でした。つまり日本のミステリをとりあげた回は、すべて女性探偵でした。四十代の葉村を除けば、どれも若い美(少)女探偵ばかり。これにはびっくり。特に意識してそうしようとしたわけでは全然なかったのに。
名探偵業界(?)は、古くは完全な男性社会でした。たまに女性がいるとミス・マープルのようなおばあさんだったりして、若い著名な女性名探偵はなかなか思い浮かびません。以前、女性探偵というと、なにかとジュブナイルのナンシー・ドルーが引き合いに出されるケースが多かったのですが、そのせいだったのでしょう。
新本格ムーブメントから三十年余り。御手洗潔、矢吹駆をはじめとして、島田潔、江神二郎、火村英生、法月綸太郎……と、初期の有名なシリーズ探偵は、やはり男性が大半でした(そういう意味では二階堂蘭子は珍しい存在だったのかも)。ところがいつの間にか女性探偵がぐんと増え、業界を席巻しつつあるようです。しかも、これは女性の社会進出云々という情勢によるものよりも、作家(と読者)の多くが「萌えキャラ」を愛でるのが普通になった世代になりつつあるから、ということと無関係ではないような気がします。照れなきキャラ消費の現代、名探偵システムに美少女をあてがうことは、むしろごくごく自然な成り行きに思えます。だから、おばさんやおばあさんのシリーズ探偵は、昨今あまり登場しませんね。そういう意味でも、四十代葉村は貴重な存在なのかもしれません。
◆『屍人荘の殺人』の映画化作品
『屍人荘の殺人』をとりあげた昨年の11月は、映画公開を控えて、書店で大キャンペーンが繰り広げられていました。この連載で何度か書いたように、僕は本格ミステリの映像化に(特に日本のコンテンツに)まったく期待していません。特にこの作品は、ゾンビ襲来を扱うという映像的に派手な特殊状況とは裏腹に、ミステリとしての背骨は映像屋が最も毛嫌いする「緻密で地味な消去法推理」によるフーダニット(犯人探し)なのですから。
なんてことを言いつつも、気になって初日の初回を観に劇場に足を運びました。ところが意外なことに、その背骨は(かなり簡略化されていたものの)へし折られてはいませんでした。
ゾンビパニックを起こした斑目機関の陰謀や、探偵キャラの特殊な境遇などの映像屋が膨らませたくなりそうな部分をあえて省略し、ゾンビとの闘いという派手な要素も背景として最小限に抑えられていました。薄まっていたとはいえ、一応「ミステリ映画」になっていたんですね。若手人気俳優たちによる探偵キャラのコミカルで奇矯な性格付けは、チープとはいえ許容範囲に思えました。浜辺美波嬢は、美少女探偵としての存在感を十分発揮していたと思います。
いかにもテレビドラマのような軽い絵面が続いて、映画としての完成度はそれ以上のものではないとはいえ、最悪を予想していた僕にとってはいい意味の裏切りを受けた気持ちでした。
だからといって「じゃあ、映画を観てから原作を読もう」というのは勘弁してください。この作品のなくてはならない核である緻密なロジックは、映像では簡略化されカルピスウォーターを水で割ったぐらいに薄まっています。こういうロジックを押し立てた小説は、現代でもやはり貴重です。その醍醐味を、自ら放棄してはもったいない。読書の喜びの後に、屍人荘の佇まいや登場人物たちがどう視覚化されているのかを楽しむというのが、ベストな鑑賞法だと思います。
特に最後の殺人の「ゾンビの特性の利用の仕方」については、映画ではデータの提供が足りなすぎて、アンフェアになっています。これはミステリとして、かなりのマイナス点でしょう。
実はこの部分、小説でも「犯人がその効果を十分予想し得たのか?」という疑問が浮かぶところではあるのですが。
◆『13・67』クワン亡き後の香港は………
激動の半世紀の中で、翻弄される香港のクロニクルを描いたこの本。警察が時々の権力に流される中、あくまで民衆のための正義を貫いた伝説の刑事がクワンでした。物語はクワンの死とともに、2013年で終わりますが、その翌年「雨傘運動」が起き、2020年の今、香港警察が香港の民衆に何をしているのか。日本でも連日ニュースが流れてきて、この都市の根幹が失われていく断末魔が聞こえる気がします。僕が務めていた会社は、香港の商社を通じて商売をしていましたから、その崩壊の音が生々しく耳に届きます。
クワンが生きていたら、この時代をどう過ごすのでしょう。
昨日、久しぶりに書店に行ったら、『13・67』が上下巻で文庫化されていました。今こそ読まれるべき本でしょう。
◆『ナイブズアウト』吹替版の出来
公開から半年もたたないうちに『ナイブズアウト』がNetflixの見放題作品に入って、ちょっとびっくりしました。異例の速さですよね。これはコロナ禍の影響もあるのでしょうね。
その少し前にAmazonビデオで有料配信されていたので、早速懸案の「日本語字幕のアンフェア」がどう「日本語吹替版」で処理されているかをチェックしてみました(なにが懸案なのかは、#5.5をお読みください)。
ここは本来、英語でなければその趣向がまったく理解できない部分なのです。ある言葉が違う言葉に「聞こえる」ことによって、登場人物(と観客)に別の解釈を生んでしまうという作者側の仕掛けでした。これはダイイングメッセージテーマの処理としても最高に素晴らしく、あらためてライアン・ジョンソン監督のミステリ作家としてのセンスの凄さがうかがえます。
だから吹き替えや字幕で、英語のニュアンスを伝えることはもともと不可能。ただ、劇場の字幕では「聞き違えた」言葉をそのまま文字にしてしまったため、「嘘」を書くことになってミステリとしては許されないアンフェアなものになっていたのです。
吹替版では、それを避けるためにセリフの内容を微妙に変更し、「嘘」をつかせるのを避ける処置をしていました。これは明らかに字幕のアンフェアを承知した上で、同じ愚を重ねないための意識的な変更で、吹替版担当者の意識の高さを感じさせる仕事でした。
ただ、かなり苦し紛れなのは否めない。そして皮肉なことに、セリフ内容を変更したがゆえに、吹き替えだけを観ているとこのセリフの元来のダブルミーニングの騙しの面白さに気が付けないのです。
さて、では配信版の字幕は、劇場版の字幕のアンフェアを訂正していたでしょうか? 残念ながら、そこは「そのまんま」でした。これはひどい。
僕はかねてより、字幕より吹き替えのほうが丁寧な仕事がなされているような気がしてなりませんでした。もちろん作品やそれぞれの翻訳者の力量にもよるでしょうが、セリフのひとつひとつに細かな伏線が忍ばされているミステリ映画には、吹替版が必要だと考えます。字幕は省略が酷すぎるし、文字を読むのに気を取られて、大事な視覚的な伏線を見逃す恐れだってあります。
ただこの作品の場合、例の場面の「仕掛け」は、字幕版のほうが(アンフェアにもかかわらず)判りやすいという皮肉があります。そこを味わうためには、二度目は字幕版を観るという方法があります。あるいはNetflixの配信やDVDの場合は「日本語字幕を出しつつ、吹き替え音声を流す」という荒業も使えます(笑)。この方法をとると、字幕と吹き替えの「言葉の吟味の仕方」が全く違うのがよく判ると思います。
もちろん、字幕を消して英語音声で観るのが、本来は一番いいに決まっていますよ。僕には絶対に無理ですけどね。
もうひとつ。Netflixでこの作品をクリックすると、自動的に予告映像が流れます。これが「犯行時なにがおきたか、被害者を刺したのは誰か」をいきなりばらしちゃうシーンなのです(今は変更されているかもしれません)。ミステリ映画の予告でそんなネタバレは普通はあり得ないわけですが、実はこのシーンは、本編開始30分で観られるので安心してください。コラムでも書いたように、この映画はオーソドックスなフーダニットに見せかけつつ、実はコロンボ的倒叙推理風サスペンスで物語を引っ張っていくという、映像向けに相当工夫された変則的な作品なのです。しかしながら、ネットで公開されているレビューでそこを指摘したものをほとんど見た覚えがありません。「昔ながらのよくある犯人探しのミステリで安心する」「コナンを見慣れた日本人には歯ごたえがない」などという見当違いの感想のオンパレード。「アガサ・クリスティに捧げられた作品」という宣伝文句をうのみにして、思考停止した人がいかに多かったかということでしょう。
僕は劇場で字幕を二度、そして今回の配信で吹替版、そしてあちこち確認のために何度もつまみ食いで観ましたが、全然飽きずに楽しめました。
観れば観るほどミステリ作家としてのきめ細かやかな仕事があちこちに発見され、その上現代トランプアメリカの病んだ部分を皮肉たっぷりにえぐってまでみせるのですから、ライアン・ジョンソンの凄腕に感嘆し、次回作に注目せざるを得ません。
◆さて、次回は……
実は10回で区切りをつけて、次からはこれまでとは違う路線で連載を続けたいと思っています。だから今回は「インタールード」なんですね。
これまで、比較的最近の話題作を一冊とりあげ、それのブックレビューのような形でコラムを書いてきましたが、実は始める前の構想とは全然ちがってしまっているんです。
本来は、近年忘れ去られつつある過去の名作をとりあげて、テーマやトリックについてジジイが思い出を垂れ流す軽い読み物を書くつもりだったんです。「隠居の書棚」ってそういう意味だったんですね。ところが昔読んだ本の内容をすっかり忘れてて、自信を持って書けない! もう一度読み直そうにも、昔の文庫本は字が小さくて老眼にはしんどい!
そんなわけで、最近読んだものを紹介する方向にずれていってしまったのです。おハズカシイ。
でも最近SNSなんかを見てると、過去の名作を全然読まずに新刊書しか読まない若いミステリファンが増えているんですね。別に勉強じゃないんだからそれでいいのですが、ミステリってよくも悪くも先行者の作品を踏まえて読むべきものという「宿命」を少なからず抱えているような気もするのです。それはどんな趣味もそうなのかもしれませんが、ミステリは特にその傾向が強いような気がします。斬新な密室トリックに驚くには、やっぱり他の素晴らしいトリックのパターンを知っていてこそ斬新で素晴らしいと判るわけじゃないですか?
先行者のプロットやトリックを踏み台にし、換骨奪胎し、さらに上に行こうとするのがミステリ作家なら、読者も最低限の素養を持っているほうが楽しいはずです。
残念ながら、僕自身それほどの読書量を誇っているわけではないので、水先案内人としては非常に心もとないわけですが、まあちょっと隠居のおススメを聞いてみるのも悪くないかもしれませんよ?
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