この人に深く共感して、もう10年になります。思い切り落ち込んだり凹んだりしたとき、私の心の拠り所になっているのが「寝太郎」ブログです。
私が彼を注目し始めたのは、彼が2011年に「Bライフ10万円で家を建てて生活する」という本を出版したとき。
「Bライフ」という言葉は彼の造語のようです。
安い土地を買って、そこにテントを張るなり、ダンボールハウスを作るなり、自分で小屋を建てるなりして住んでしまおうというライフスタイルです。ホームレス以上、一般市民以下、「土地持ちホームレス」くらいの気持ちで、誰にも文句を言われずにいつまでも寝転がっていられるローコスト生活を志向しています。
「Bライフ」とは当ブログ管理人の作った造語で、.ベーシックライフ(固定費を抑えた必要最低限の生活)、ベイビッシュライフ(素人が試行錯誤で遂行できる生活)、ぼっちライフ(一人で立ち上げ一人でやりくりできる自己完結的な生活)、B級ライフ(普通の賃貸暮らしをA級とすれば、B級生活)、ビギニングライフ(自分の人生の原点・出発点。いつでもここに戻ってくればいいと思える拠点)、ボヘミアンライフ(心身ともにノマド的・非定住的であるための拠点の確保)、などを意味しています。
Bライフとは
寝太郎氏は、Bライフの実現に向けて色々と緻密に計画を立てて実行しています。初期費用10万円で自分の家を建て、その後の生活費についても細かく計算しています。
誰でも一度は「誰にも文句を言われずにいつまでも寝転がっていられる生活」に憧れを抱いたことがあるはず。私の目にも、寝太郎氏のライフプランはとても魅力的に映りました。
おそらく、多くの人が私と同じ気分を味わったのでしょう。寝太郎氏の出現以来、雨後の竹の子のように小屋暮らしを始める人が増えました。うっすらとした記憶ですが、千葉の九十九里浜あたりはそういった小屋暮らしの人がたくさん集まっていたような気がします。
ここからは私の推測ですが、2011年というタイミングもあったのでしょう。東日本大震災で起きた福島第一原子力発電所の事故がきっかけとなり、オフグリッドというキーワードがメジャーになりました。思えば、寝太郎氏の小屋暮らしは、究極のオフグリッドと言えなくもありません。
そういえば昨年から今年にかけてのコロナ禍において、キャンピングカーや軽キャンで旅をしながらYouTuberとして生活している人をよく目にするようになりました。たまたま私の志向にあわせてYouTubeがリコメンドした結果、よく目にするようになっただけなのかもしれませんが。
震災による原子力発電所の事故と、新型コロナウイルス感染症の感染拡大。どちらも大きな出来事でしたし、その影響を受けて価値観が変わった人が出てくるのは、むしろ当たり前のように思えます。価値観が変われば、ライフスタイルの選択肢は広がります。そのひとつとして「小屋暮らし」「車上生活」というものが選ばれることもあるでしょう。
私が心惹かれるのは、その選択肢の豊かさです。一般的な価値観、「当たり前」のライフプランを捨て、自分のためのプランを1から立て直していく。もちろん、それでいいんです。その人の人生は、その人のものだから。私は、その自由な発想に憧れるのだと思います。
ところで、久しぶりに寝太郎さんのブログにアクセスしてみたら、こんな記事がありました。
そこにあった、この言葉。
YouTubeを見ていると、いろんなものを作ったり、嬉々として説明したり、エコやDIYで盛り上がっている動画の背後に、「人生の余裕」が映る。ああ、こういう余裕のある人たちがやることなのだ、と。僕にはない。人生の余裕なんて、これっぽっちもない。あれをやっていないとか、これをやらなければとかいうことではなく、人生は端的に、狭く、息が詰まる。自分の人生には余裕というより、呆けたような空白の時間があって、そして思い出したように不安と焦燥感に襲われる。
人生の余裕
う〜ん、よく分かる。安易に「分かる」なんて言うと失礼かもしれませんが、それでも胸に迫る実感はあります。そして、そういう寝太郎さんだからこそ、今でも小屋暮らしを続けているのだし、もっと言うと「それしかできない」という結論になるのだと思いました。
僕は小屋が、「生の物語」に還元しようのない人格、世間では居場所のない人格の救済の場となればいいなと思っている。しかし、小屋のようなライフスタイルにおいてすら、最終的には判で押したような物語、判で押したような人格を以てしか受け入れられないのだろう。だから、物語の欠如を伝えるためであっても、物語の仮面を被らなければならないのだと思う。
人生の余裕
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