先月末、「矢吹駆シリーズ」の最新作「煉獄の時」が出版されました。実に11年ぶりの新作とあって、このシリーズのファンは大いに喜びました。「別冊マイカ」で「ミステリ倶楽部」を書いていた白井さんも、そのひとり。彼がとても熱心に推薦するので、私も読んでみることにしました。
白井さん曰く「いきなりこの本を読んじゃだめですよ。一作目から順に読んでくださいね」とのこと。ということで、シリーズ一作目である「バイバイ、エンジェル」から着手し、昨日読了しました。……いやあ、よかった。といってもこの読後感は、いつもミステリを読み終わった後に感じる、あのカタルシスとはちょっと違います。浄化というより、沈殿。ずっしりと重い澱のなかにずぶずぶと身を沈めていくような、「ああ、うっかり手を出してしまったからこんなことに……」と後悔してしまうような、「ここになにか新しい宝があるかもしれない」という期待に胸躍るような。そんな複雑な気持ちでした。
これ以上話を続けてしまうとネタバレになりそうなので、今回はこのシリーズの中心人物である「矢吹駆」を、少しご紹介しましょう。
矢吹駆は、パリ大学の哲学講座を聴講している東洋人です。語り手であるナディア・モガールが彼を見たときの印象は、正体不明のミステリアスな男。ナディアは、好奇心と悪戯心から駆を探偵ごっこに誘い込みますが、やがて彼の手腕を目の当たりにすることになります。
矢吹駆の推理法は独特で、彼自身「現象学的推理」と定義しています。彼は、これまでの探偵が推理して解決を導くまでの流れについて「なぜ彼は正しく独断し、正しく飛躍しえたのだろうか」と考えます。探偵の推論は、それだけが論理的筋道をたどっているわけではなく、ほかにも解釈はいろいろあったはず。ではなぜ探偵は正しく推論できたのだろうか。彼は「探偵が本質直観によってはじめから知っていたから」と言います。
犯罪は複雑な要素が絡み合った混沌であり、駆はその混沌を「事象」と捉えます。混沌のなかにある錯綜した意味の連鎖が、どこかある一点にむかって収斂されていくとき、彼はそこにむかって現象学的直観を働かせ、そのなかにある本質を見抜きます。
たとえば、この殺人事件の中心にあるのは「首のない屍体」。彼は、首のない屍体の本質は「殺人という事実の隠匿」であると言います。つまり「誰にたいして、何を隠すために首を切断したのか」ということ。これを考え続ければ、おのずと真実が見えてくると言います。実際、そこがひとつのキーであったことは間違いなく、この駆の進言通りに進めていけば、事件はもう少し早い段階で解決でき、その後の連続殺人を止めることができたかもしれません……。
駆は、犯罪に対して特別な興味を持ちません。犯人が誰なのかということにもあまり関心がありません。彼にとって、犯罪はひとつの事象。連続殺人を止めようともしないし、誰がどんな風に行ったのかということにも、さほど興味はない様子です。総体からひとつの現象を取り出し、その本質を直観することで、その犯罪の意味を把握することにのみ興味をもつ男。私は長くミステリファンを自認してきましたが、こんなふうに事件を扱う探偵を見たことがありません。まさに異色の探偵です。
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