「起きて半畳 寝て一畳」という言葉があります。「人間一人が占める広さは、起きているときで半畳、寝るときで一畳あれば十分」という教えなのだそうです。
言われてみればそうかなあという気がしますが、実際、そうなんです。ご存知の通り、私たちは1ヶ月のうち10日前後をハイエースの荷室で過ごしています。ハイエースの荷室スペースは、幅が約150cm、縦が約3m。このなかで大人ふたりが生活するわけですから、一人あたりのスペースはその半分。一畳のサイズ(約182cm x 91cm)より少し広めではありますが、棚やキッチンの面積を差し引いて考えるとだいたい同じぐらいだと思います。
今もハイエースの中でこの文章を書いていますが、特に狭いとは感じません。冷蔵庫や食器棚、キッチン、ベッド、仕事用デスクなどが効率よく配置されているので、あまり不自由もありません。必要なものがすべて手の届く範囲にあるので、むしろ自宅より便利だとさえ感じます。
先日、ちょっとした事件がありました。旅先で夫が微熱を出してしまい、車のなかで療養しなければならなくなったのです。私たちは、シャワーやトイレ、ランドリー類の設備が整ったRVパークという施設を予約し、そこに4泊5日滞在しました。すぐ近くにコンビニやドラッグストアがあるので、生活する上で不便はありません。夫の具合がよくなるまで、安心してここで過ごせばいいと思っていました。
ところが3日を過ぎたあたりから、少し雲行きが怪しくなってきました。前日から大雨が続いていたことも影響したのでしょう。車の荷室で寝続ける夫の姿を眺めていたとき、私の気分が下降していることに気づきました。「このまま熱が下がらなかったらどうしよう」「ひどい病気だったらどうしよう」「私は運転できないから、家に戻れないかもしれない」なんてことを、グルグル考えていたんです(夫の病状がさほど悪くなかったにも関わらず、です)。このとき、ふと『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎)に書かれていたことを思い出しました。一部を引用します。
必要なものが十分にあれば、人はたしかに生きてはいける。しかし、必要なものが十分あるとは、必要なものが必要な分しかないということでもある。十分は十二分ではないからだ。
國分さんは、このあと「必要なものが必要な分しかない状態は、リスクが極めて大きい」と書いていました。このとき、人は豊かさを感じることはできない。つまり、「人が豊かに生きるためには、贅沢がなければならない」というのです。では、贅沢とはなにか? たとえば、節約のために外食を控えていたとします。「外食しなくたって生きていけるじゃない」と言われればその通りなのですが、たまには好きなお店で美味しい料理を食べたいと思うもの。國分さんは、これを「生活に豊かさをもたらす浪費=贅沢」と言います。
話を戻しましょう。私は生活するのに何も不自由がない場所に車を停めて、そこで数日を過ごしました。実際、生きていくのに困ったりはしませんでしたが、気分は下降し、よくない思考に走るようになりました。このとき、私に足りなかった「贅沢」とは、なんだったのでしょうか。その答えは、翌朝、車のドアを開けたときにわかりました。
その日はとてもいい天気で、太陽の光がまぶしいほどでした。大雨をもたらした雨雲は、夜の間に移動したようです。外に出て見上げると、青空が広がっていました。そのとき「ああ」と気づきました。「私に足りなかったのは、外だった」と。
「起きて半畳 寝て一畳」。私にとって、生活するスペースはこれだけで十分だと思っていました。しかし実際はそうではなく、さらに「ドアを開けば外に出られる」という条件が満たされる必要があったようです。外というスペースは、生活に必要なものではありません。しかし私にとっては、小さく縮こまった体を思う存分伸ばせる場所であり、(もしやりたければ)ダンスを踊れる場所であり、もしかするとその土地の人と軽い挨拶が交わせる場所でもあります。
もし外のスペースがなければ、「起きて半畳 寝て一畳」の部屋はただの牢獄です。牢獄は移動を制限するものであり、人間にとってはそれがとても辛いということが、同著にも書かれていました。そのつらさこそ、ここ数年のコロナ禍で私たちが味わった感情に似ているような気がします。とすると、「不要不急」の外出は不要ではなかったのかもしれません。
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