8月3日に行われた哲学カフェのテーマは「働く(仕事をする)とはどういうことか」でした。この普遍的な問いに対し、多くの人は「仕事とは、生活費を稼ぐためにやること」と答えるでしょう。実際、議論の冒頭でもそのような回答が多く見られました。
確かに、働く理由の大部分は「生存に必要な食料や住居を得るため」でしょう。これは「食い扶持」という言葉にも象徴されています。資本主義社会において、こういったものは主にお金で賄われます。しかしそれだけが「食い扶持」ではありません。
かつては自給自足や物々交換が一般的でした。また、才能ある人の活動を支援するパトロンの存在や、家族・仲間内での役割分担など、様々な形で生活を支える「食い扶持」もあります。そう考えると、「食い扶持を得るための行為」だけが仕事とは言えないように思います。
「仕事」の定義に「報酬がある」という条件を含めるなら、その報酬は必ずしも金銭とは限りません。専門知識の共有による感謝や尊敬、自己表現による自己肯定感なども報酬と捉えることができます。哲学カフェのなかで「詩人の中原中也にとって詩を書くことは仕事だったか」という問いがありました。おそらく彼は食い扶持を得るために詩を書いたのではないでしょう。しかし少なくとも詩を書くことでなんらかの喜びを得ていたのではないかと想像します。
報酬に関わりのあるところでは、「社会貢献や他者支援に喜びを見出す」という意見もありました。一見、自己犠牲的に思えるボランティア活動も、実は自身の幸福度を高める効果があります。カナダのブリティッシュコロンビア大学の心理学者であるエリザベス・ダンが行った実験では、他人のためにお金を使った人が幸福を感じたという結果が出ています。これは人間の本質的な性質を示唆しているかもしれません。
「報酬」は他人から与えられるものというイメージがありますが、最終的にそれを感じるのは自分自身。金銭的な喜び、称賛による満足感、他者貢献の充実感などの感情はすべて自分の中に生まれます。こういった心理的な報酬も仕事の定義に含めるとすると、仕事の目的は単なる生活維持だけではないように思えます。
「働く(仕事をする)とはどういうことか」という問いへの答えは、個人の価値観や状況によって多様で、一概に定義することはできません。私も、自分なりに腑に落ちる回答が出るまで、もうしばらく考えてみようと思います。